つねに世間を賑わせている「週刊文春」。その現役編集長が初めて本を著し、話題となっている。『「週刊文春」編集長の仕事術』(新谷学/ダイヤモンド社)だ。本連載では、本書の一部を抜粋してお届けする。(編集:竹村俊介、写真:加瀬健太郎)
「ことなかれ」ではなく「ことあれかし」
「ジャーナリストは『ことあれかし』だ」というのは立花隆さんの名言である。「ことあれかし」とは「何かが起きないかな」と期待する気持ちだ。逆に「ことなかれ」はジャーナリストの敵だ。
1964年生まれ。東京都出身。早稲田大学政治経済学部卒業。89年に文藝春秋に入社し、「Number」「マルコポーロ」編集部、「週刊文春」記者・デスク、月刊「文藝春秋」編集部、ノンフィクション局第一部長などを経て、2012年より「週刊文春」編集長。
もうひとつ、元担当編集者から聞いた松本清張さんの名言が「週刊誌とは生体解剖だ」である。「死体解剖」になってはいけない。既に評価が定まったものを、いくら切り刻んでもおもしろくない。生きているところを、そのまま解剖して「実はこんな人間だ」と伝えるからこそ、読者は興味を持って読んでくれる。もちろん生体解剖だから、切れば血が出るし、失敗したら生命にも関わる。メスならぬペンさばきには細心の注意が必要だ。
「ことあれかし」と「生体解剖」は、まさに週刊誌の本質を突いている言葉だと思う。
やはり大きな事件があると、編集部は活気づくものだ。横山秀夫さんの小説『クライマーズ・ハイ』(文春文庫)でも、御巣鷹山に飛行機が落ちたとき、地方紙の編集局が色めき立つ様子が描かれている。それはもちろん悲惨な事件を喜んでいるわけではない。目の前に「伝えなければならない事実がある」という使命感から生まれる熱気だ。「誰よりも早く、誰よりも正確に事実を伝える」という記者としての本能がそうさせるのだ。
そんな非常事態において、大過なく過ごそうと思う人、なるべく傷つかずに、ほどよい手柄だけ取れればいい、などと考える人は記者には向いていないだろう。
週刊文春を火曜日の夜に校了した後で、デスクと「今週もしびれたな」「綱渡りだったな」とよく話す。私はこの感覚が好きなのだ。先行きが見えない中、走りながら次々に軌道修正をくわえ、なんとか着地を決める。何ごともなく淡々と終わる週は、ほとんどない。私はよく「週刊誌作りは究極の結果オーライビジネスだ」と言うのだが、それを、おもしろがれるか、おもしろがれないか。おもしろがれる人が偉いとは言わないが、おもしろがれる人が向いているのがこの仕事だ。
「ことあれかし」で生きることはハタから見れば大変そうかもしれないが、私は楽しい。何が起きるんだろうとビクビクして生きるよりも、何かが起きれば「来たー!」といってフルスイングする。
「2016年はネタがたくさんありましたね」と言われることがあるが、それは違う。ネタはたまたまあったのではなく、記者たちが取ってきたのだ。私は受け身の発想が嫌いである。どんどん攻めて、状況を変えていく。何ごともこの姿勢が大切なのだと思う。