三重野氏は、日銀のプリンスと呼ばれ、早くから総裁就任が確実視されていた

 4月15日に死去した三重野康氏は、1989年12月に日本銀行総裁に就任する。当時はバブルのピーク。12月28日に日経平均株価は3万8915円の史上最高値をつけた。大都市圏では不動産価格が急上昇、1億円を超える住宅が続出し、一般のサラリーマンにはマイホームは高根の花になっていた。資産を持つ者と持たざる者の格差が拡大、持たざる者からの悲鳴、怨嗟の声が上がっていた。

 三重野氏は就任直後から急激な金融引き締めに踏み切る。12月に公定歩合(当時の政策金利)を3.75%から4.25%に引き上げた。その後、90年3月に5.25%、8月には6%に引き上げる。バブル退治に邁進する姿は平成の鬼平ともてはやされた。

 大幅利上げで株価も地価も下落に転じる。日経平均株価は90年に入ると急落、10月1日には一時2万円を割り込む。地価も騰勢が鈍化、91年をピークに長期の下落基調に転じる。バブルは崩壊した。

 しかし、バブル崩壊の副作用が日本経済を襲う。不動産担保の融資は担保割れし、銀行の不良債権が急増した。91年7月に日銀は利下げに転じたが、逆回転を始めた資産価格の下落は止まらない。金融が目詰まりを起こし、日本経済は現在に続く低迷期に入る。

 90年に株価が急落、地価の騰勢が鈍化する中で利上げのペースを抑制、ないし金融緩和に踏み切れば、日本経済へのショックを和らげることができたろう。事実、この時期の日本を教訓としたFRB(米連邦準備制度理事会)は、2000年にネットバブルが崩壊し始めると、翌年にかけ素早い金融緩和で対応した。株価は大きく下落することはなく、米国経済はその後も順調に拡大を続ける。

 確かに住宅は再び庶民の手が届く存在になった。一方、急激な金融引き締めは日本経済長期低迷の要因の一つともなった。三重野氏のバブル退治の功と罪である。

(「週刊ダイヤモンド」編集部 竹田孝洋)

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