1998年秋、日本長期信用銀行(以下、長銀)は経営破綻し国有化された。破綻時の頭取だった鈴木恒男氏は当時の記者会見で、その原因を「急激な環境の変化」と語った。長銀は長期資金の貸し付けを主に行う長期信用銀行としての役割が行き詰まり、新たな貸付先を拡大する中で、不動産バブル崩壊へと巻き込まれていった。さらに金融行政の変化、金融危機の発生という外部的な要因も、長銀を破綻へと導く大きな要因になっていた。
こうした急激な環境変化が起こる中で、長銀「最後の頭取」は、破綻を前にどのような状況に追い込まれ、対応していたのか。20年がたった今だからこそ話せる、長銀破綻までのカウントダウンの日々を鈴木恒男氏に聞いた。(聞き手/経済ジャーナリスト 宮内健)
※前編はこちら→『長銀「最後の頭取」が語る、20年前の破綻に至った本当の理由』
金融行政は「護送船団方式」から
「自己責任原則」へと移行
さまざまな経済対策で1996年には景気回復の動きが広がり、金融機関の不良債権問題は解決へ進むかに見えました。しかし当時の橋本龍太郎首相が主導する財政緊縮政策が打ち出され、政府が97年4月からの消費税2%引き上げを閣議決定すると、景気は冷水を浴びせかけられたように委縮し始めました。
97年に入ると、それまで経験のない信用収縮が生じつつありました。地価をはじめとする資産価格の低下が実体経済の足を引っ張るデフレスパイラルにより銀行は追加の不良債権償却・引当に迫られ、自己資本比率規制をクリアしようと一段と激しく貸出金の回収に走りました。これで流通業界やゼネコン業界などで多くの企業が資金繰りに窮し、事態は不動産バブルの崩壊から、非製造業を主とする過剰債務企業を市場が追い詰める新段階へ移行しました。
一方、95年12月に「今後の金融検査・監督等のあり方と具体的改善策の取りまとめにあたって」という大蔵大臣談話が発表されました。「金融行政の転換について」という副題がつけられたこの談話で、金融機関の自己責任の徹底と市場規律が十分に発揮される透明性の高いシステムを構築することが宣言されました。
金融行政の根本を、それまでの大蔵省が行政指導する護送船団方式から自己責任原則に変えることは、邦銀の格付けにも大きく影響しました。さらに96年11月、政府は唐突に「金融ビッグバン」を打ち出しました。ただ、総論だけで具体論が見えず、金融業界の人間もメディアもそれが何を意味するのかよくわからない状態でした。
このような経営環境の激変の中で、97年5月頃から長銀はスイスバンクコーポレーション(SBC)との業務提携に活路を見いだそうとしました。株式を持ち合い、合弁で証券会社や投資顧問会社を作る。自己資本を増強し、海外に後れを取っていたといわれる新金融技術の習得などが見込め、日本の銀行としてはかなり先を行くような提携をしたつもりでした。
しかし、後でこの提携が裏目に出ることになります。