「公立病院に勤務し始めたころに受け持った、70代の女性がいました。研修医あがりでまだ若い僕に、その患者さんは自分の孫のように接してくれて、『先生がいいと思う治療ならやってもいいよ』と信頼し、任せてくれました。でも、僕らには何もできない。

 結局その人は亡くなって、ご家族が家に連れて帰りました。胃がんだったんですが、出血がひどくて、腸のなかにも血液が流れ込んでいたんですね。そうすると体温で腸内の細菌が発酵して、ガスが出ます。よくあることなんですが、ガスが皮膚にどんどん染みだして、身体がパンパンに膨らんでくる。『お母さんの顔がどんどん変わっていく。なんとかしてください』と、ご家族から連絡が来て、すぐにご自宅へ伺いました。どうしようもないんですけど、『ごめんなさい』と謝りながら、皮膚に注射針を刺して、少しでも空気を抜こうとしました」

 泣きながら亡骸に針を刺す先生の姿が目に浮かび、聞いているほうも胸が苦しくなる。

「研修医時代に受け持った、自分と同年代の血液がんの患者さんのことも忘れられません。やれることがなくなって自宅に帰したのですが、輸血は毎日しなくてはならないので、僕は毎日、輸血用の血液を彼の家の近くにある病院まで持っていき、『何かあったらお願いします』とお願いしながら、一緒に車に乗せて連れていったりしていました。今は、そういうことはやりませんが。

 たとえリスクが高くても、患者さんがそう願っているんだったらやろう、という治療は昔の方ができたかもしれないですね」

 医師は患者に感情移入し過ぎてはいけないと聞く。患者への共感力が強いと、患者の痛みや悲しみを自分のものとして捉え、後悔からバーンアウト(燃え尽き症候群)しやすいからだ。しかし、安井先生の場合は、後悔を前進のための原動力に変換することができるのだろう。

同じ目的意識と姿勢を
病院全体が持っている

 近年の化学療法の進歩を肌で感じながら、安井先生は、支持療法など日々の診療に打ち込んでいる。

「抗がん剤の種類も増えたし、生存率も伸びて、化学療法の考え方もだいぶ変わったような気がします。

 例えば今、手術も局所的な放射線治療もできない患者さんに抗がん剤治療をするかどうか、僕たちは患者さんと一緒に決めています。以前は患者さんが我慢できれば、抗がん剤を死ぬ間際までやりましょうという医師が多かったのですが、そこもだいぶ変わりました。

 大腸がんの薬なども昔は1種類か2種類しかなかったのに、6~7種類に増えました。かつて、抗がん剤治療はしてもしなくても同じというか、苦しむだけでしょうという感覚を医療者側も持っていましたが、現在は効く薬ができて、確実に生命を延ばせる人が増えたことから、延ばした時間を少しでも、質も含めてよりよく過ごせることを求める時代が来ているのだと思います」

 効く薬が増え、生存率も高まったが、依然として、抗がん剤治療が全員に効くわけでも全員が生存するわけでもないという事実はある。そのなかで安井先生は、患者のがんの状態やそれ以外の臓器の状態、年齢、家族背景、仕事等々、さまざまな事情を考慮して薬を処方し、支持療法も行っているのである。