私は仕事で社会問題(環境問題や戦争紛争など)をテーマにした映画やイベントに関わることが多いのだが、その「応援」をしてくれる人たちも、この指摘が当てはまるように感じることは少なくない。情報拡散やイベント参加などの協力をすることで、その社会問題に対してわずかなりとも自分ができるアクションを起こしていると思えることに、きっと自分なりの満足感を得ているのではないかと思うのだ。

 逆に、利他的に見せているものの裏にある利己性について、もっと考えたほうがいいのでは?と思う場面もある。例えば、近年「SDGs」が取りざたされ、「当社は何番目のこれに当てはまるこんな活動をしています…」と標榜している企業も多い。しかし、過去からやっている取り組みの見せ方を変えただけという企業も多かったり、中身の意識がともなわないパフォーマンスだという批判も少なくない。

 寄付行為などもそうだろう。助け合う気持ちや行動はとても大事である一方で、「○○のために何かをやった」と満足してしまうと、それ以降の思考や行動が停止してしまう。利他的な行為をした時にこそ、「これは自分のため!利己的なこと!!」と自分に言い聞かせることも、ときには大切なのではないだろうか。

 …おっと、栗下さんの本に触発されて、持論に流れてしまった…。本書に話を戻そう。

「損」を選択し、後から「利」することは「徳」?

 さて、二宮尊徳のように、利他的なことさえも利己的と考える精神こそ、「徳が高く」、もっとハードルが高いと感じた人もいるかもしれない。

 では、江戸時代前期の商人・淀屋常安はどうだろう?「利他的に振る舞うことで出世を遂げた人物」として、あの出口治明さんからも言及されている常安。彼の有名な行動のひとつが、徳川家康と豊臣秀吉とが戦をすることになった時、家康の本陣を全部無料で建てると提案した、という話だ。それだけではない。常安は加えて、「合戦が終わったら、遺体処理もさせて欲しい」と頼んだのだ。かつては豊臣側についていた常安を、家康も最初は訝しんだものの、あまりの好条件の提案に承諾。そして合戦後。常安は遺体から鎧や刀剣などの武具・馬具を回収して転売し、莫大な富を得たという。