ジョン・パターソン(1844~1922)の能力は家族の農場で育まれた。父親から農作物をいくらで売ったのかと常に問い質されたことで、地元のある取引業者が発明した道具に興味を持つようになった。パターソンはその道具、キャッシュレジスターに目をつけ、巨大企業、ナショナル・キャッシュ・レジスター社にまで育て上げた。
パターソンは、富を蓄積していく過程で、それまでにない販売の技法を編み出し、企業内のトレーニングセンターのアイデアを実現し、ある町を存亡の危機から救ってさえいる。生産性の向上を絶えず労働環境の改善に活かそうとした先駆者だ。
生い立ち
1844年、オハイオ州デイトン近郊で生まれたジョン・パターソンは、その幼年期を家族が経営する2000エーカーの農場ですごした。8人きょうだいだったため、子どものころから父の農場の作物を売って家の手伝いをした。売り値を記録しないまま作物を売ってしまうことが多かったため、父はパターソンに昼でも夜でも、作物を売った相手とその売り値を問い質した。
パターソンは地元の学校に通い、その後マイアミ大学とダートマス大学で学び、1867年に卒業した。その間、南北戦争で北軍に加わっている。
大学を卒業後、自分で事業を興すことに決めた。マイアミ・エリー運河の通行料を徴収する仕事で資金を貯め、生まれ故郷に戻って始めたのが石炭商だった。石炭販売の次には、きょうだいのフランクとともに石炭と鉄鉱石の採掘に乗り出す。
さらに2人で協力して採掘用物資の店を始めた。店の売上げは順調に伸びたものの、利益のほうはさっぱりだった。この2人が十分に利ざやを確保していたのは間違いなく、何かがおかしいということだけは明らかだった。パターソンはこの乖離の追跡調査を試みる。地元の商人が自動的に売上げを記録する機械を発明したことを聞きつけて、それを2台購入した。
その機械を見たとき、原始的ではあったものの、すぐにその可能性を理解した。もしそれが使い物になるのなら、国中のあらゆる商店でも使わない手はないだろう。1884年、すぐさま行動を起こし、発明者のジェイコブ・リッティの会社を6500ドルで買収、社名をナショナル・マニュファクチャリング・カンパニーからナショナル・キャッシュ・レジスター(NCR)に変更する。
ところが、いざ帳簿をよくよく調べてみると、この会社は実は赤字続きだったことがわかり、相手のその場しのぎの不誠実な態度に困ったパターソンは2000ドルを払って契約を破棄しようとした。しかし相手は契約破棄の申し出を拒否、結果的にこれが幸いした。