米国で発売直後から大きな話題を呼び、中国・ドイツ・韓国・ブラジル・ロシア・ベトナム・ロシアなど世界各国にも広がった「学び直し本」の圧倒的ロングセラーシリーズ「Big Fat Notebook」の日本版が刊行された。本村凌二氏(東京大学名誉教授)「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」、COTEN RADIO(深井龍之介氏 楊睿之氏 樋口聖典氏・ポッドキャスト「歴史を面白く学ぶコテンラジオ」)「ただ知識を得るだけではない、世界史を見る重要な観点を手に入れられる本! 僕たちも欲しいです」、佐藤優氏(作家)「世界史の全体像がよくわかる。高度な内容をやさしくかみ砕いた本。社会人の世界史の教科書にも最適だ」と絶賛されている。本記事では、全世界700万人が感動した同シリーズの世界史編『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』より、本文の一部を抜粋・紹介します。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケPhoto: Adobe Stock

屈辱を受けたドイツ

 第一次世界大戦の終結から、たったの20年後に始まったのが、第二次世界大戦だ。屈辱を受けたドイツが、自国のイメージを向上させ、苦境の責任をユダヤ人や共産主義者たちになすりつけようとしたことがきっかけだった。

 ドイツは、第一次世界大戦のヴェルサイユ条約の条項に怒り、賠償の支払いを停止して、国際連盟からも脱退した。そして、ナチ党のような過激主義の政党が、権力を握りはじめたのだ。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケアドルフ・ヒトラー

ヒトラーの台頭

 第一次世界大戦で戦ったあと、1919年にドイツ労働者党に加わったのがアドルフ=ヒトラーだ。1921年になると、ヒトラーは党を掌握し、党の名前がナチ党へと変えられる。1923年、彼は、ミュンヘンで政府に対する武装蜂起、ミュンヘン一揆を起こす。

 ヒトラーの最初の蜂起は失敗に終わり、彼はしばらく収監されたけれど、収監中に『わが闘争』を書き上げる。

 この本は、ヒトラー自身がすぐに主導することになる、反セム主義(ユダヤ人差別)、反共産主義運動の基本的な考え方についてまとめたものだ。

 彼の理論では、いわゆるアーリヤ人の国家が持つ生存圏への「権利」が強調された。

 ヒトラーは、武装蜂起に頼る代わりに、こんどは政治力を使って、ドイツのライヒスターク(議会)の最大勢力となるまで、ナチ党を拡大していった。そして、愛国心や軍事的な誇りに満ちた新しいドイツをつくると国民に約束した。

全権委任法と総統

 高い失業率と経済不況にあえぎ、希望を求める人々の多かったドイツで、ナチ党はあっという間に力を増していく。

 1933年、ドイツ大統領のパウル=フォン=ヒンデンブルクは、ヒトラーを首相に任命して、彼の指揮のもとで新たな政府をつくることに同意した。

 同じく1933年には全権委任法に署名し、ヒトラーに議会の承認なしで法律を制定する権限を与えた。

 ナチ党は、ほかの政党を次々と解体し、一党独裁を築いていった。演説上手だったヒトラーは、プロパガンダを使ってドイツ国民に影響を及ぼした。

 そうして、1934年には、みずから総統(ドイツ語で指導者のこと)を名乗り、権力を手中におさめたのだ。

第三帝国

 ヒトラーの統治のもと、ナチ党は第三帝国を築き、ヨーロッパの支配を目指した。第三帝国とは、神聖ローマ帝国(第一帝国)と1871年~1918年のドイツ帝国(第二帝国)に続く、「3つ目の偉大な帝国」ということ。

 ナチ党は、ユダヤ人、共産主義者(やほかの政敵たち)、同性愛者、ロマ、ナチ党が劣等とみなした民族(ポーランド人、ウクライナ人、スラヴ人、セルビア人など)、精神障害や身体障害を持つ人々を収容する、強制収容所をつくった。

 また、1935年のニュルンベルク法のもと、ユダヤ人からドイツ市民権を奪ったことでも知られる。ヒトラーは、ヴェルサイユ条約を破り、ドイツ軍を拡大するための徴兵制を実施した。さらには、新たに空軍をつくる計画まで立てたのだ。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケ強制収容所のIDバッジ

ヒトラーの野望

 1936年、ヒトラーは、ドイツのラインラントという地域に軍を派遣する。ラインラントは、フランスと隣接する中立的な地帯のはずだった。

 フランスはいつでも軍事行動をとる覚悟でいたけれど、イギリスの支援がその条件だった。当時、宥和政策をとっていたイギリスは、ドイツへの武力行使を断った。

 当時のイギリスでは、ヨーロッパ諸国が、不満を抱える強国の合理的な要求を満たしているかぎり、その国は満足して、安定や平和が生まれる、という考えがあったのだ。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケ

 ドイツがヴェルサイユ条約を破ったとしても、自国の領土を占拠するだけなら不合理とはいえない、と考えたのだ。でも、ヒトラーの野望は、単なるラインラントの占領よりもはるか先にあった。第二次世界大戦の足音が、着々と迫っていた。

枢軸国

 似たような考え方を持つ独裁者たちは、同盟を築いた。1936年、ヒトラーとムッソリーニは、ベルリン=ローマ枢軸を築く。この同盟に加わった国々を枢軸国といい、日本は1940年に加わった。

 ソ連は枢軸国に加わらなかったけれど、ドイツと独ソ不可侵条約を結び、お互いに攻撃し合わないことで合意した。

第二次世界大戦の幕開け

 1938年、ヒトラーはドイツとオーストリアの統一を宣言する。さらに同じ年、彼はチェコスロヴァキアの一部であるズデーテン地方を併合する。

 1年後の1939年9月1日には、ポーランドも侵略した。ソ連もポーランドを攻撃し、続いてバルト3国やフィンランドへと進んでいった。

 イギリスとフランスは、そこでようやくヒトラーが脅威になると気づき、2日後に宣戦布告したのだ。

 ドイツは、1940年までにデンマークとノルウェーを制圧すると、続いてルクセンブルク、ベルギー、オランダにもやすやすと侵攻していった。

 北アフリカやイタリアでも戦いを繰り広げたうえ、フランスまでもが不意を突かれ、パリをナチ党に占領されてしまう。

最初の大敗

 でも、すべてを一変させたのが、ロシアの厳しい冬だった。ソ連と結んだ不可侵条約を無視して、ドイツは1941年にロシアの領土へと侵入したけれど、2年後の冬、ロシアの凍えるような寒さによって、返り討ちにあってしまう。

 結局、スターリングラードの戦い(1942年~1943年)で、9万1000人のドイツ軍がソ連に降伏を宣言するはめになる。ドイツにとっては、最初の大敗だった。

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英国空中戦

 1940年夏、ヒトラーはイギリスへの空襲を始める。この英国空中戦で、ドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)は、ロンドンなどのイギリスの都市を激しく空襲した。

 しかし、イギリスとイギリス首相ウィンストン=チャーチルは、降伏をこばんだ。イギリス空軍は、相手が撤退するまでドイツ空軍に攻撃を続けたのだ。

 空襲の最中、多くの子どもたちがロンドンから避難した。この出来事は、『ナルニア国物語』の本にも登場する。主人公たちが、ロンドンから疎開して、イギリスの田舎で暮らすという話だ。

チャーチルの決意

 ヒトラーがイギリスを空襲すると、多くの人々は、ドイツがこのままヨーロッパ全土を征服するんじゃないか、と思った。

 でも、ウィンストン=チャーチルは、ヒトラーを食い止めるまで、決してあきらめなかった。

 驚いたことに、ヒトラーはナポレオンと同じミスをおかしてしまう。ソ連に侵攻したドイツ軍は、寒さで凍えてしまったのだ。

ホロコースト

 一方、ドイツのナチ党の政策によって、600万人のユダヤ人と、約500万人のロマ、同性愛者の男女、障害を抱える人々、政敵、ナチ党への反対者が、組織的に殺害された。

 この出来事のことを、ホロコーストという。ユダヤ人をはじめとする多くの人々が、ヒトラーの征服したすべての地域で集められて、強制収容所に入れられたのだ。

 ポーランドには6ヵ所の絶滅収容所があったけれど、そのなかでも最大規模だったのが、アウシュヴィッツ強制収容所だ。アウシュヴィッツ送りになった人々のなかには、強制労働所で死ぬまで働かされる(または餓死する)人もいれば、おぞましい医学的実験の実験台にされる人もいたという。

 そうでない人々も、ガス室ですぐさま処刑されてしまった。ユダヤ人をかくまったり、安全な国へと逃がそうとしたりした人々もまた、見つかれば処刑されてしまったのだ。

真珠湾

 アジア本土の侵略に成功した日本は、アメリカが守っていたフィリピンなどの島々を領土に加えようと決意する。日本がインドシナを攻撃すると、アメリカは日本への補給品の販売をやめ、アメリカの銀行に預けられている日本の資金を凍結した。

 日本がハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地に奇襲をしかけたのが、1941年12月8日のこと。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケ

 ローズヴェルト大統領が「将来、恥辱として記憶に刻まれるであろう日」と呼んだことで有名な日だ。アメリカの地にこのような攻撃がしかけられたことで、アメリカの孤立主義は終わりを告げる。

 翌日、ローズヴェルトは議会に、日本への宣戦布告を求めた。そして、3日後の1941年12月11日、ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告し、アメリカ議会も宣戦布告し返した。こうして、アメリカは第二次世界大戦に参戦したのだ。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケナバホ=コードトーカー
ドイツは連合国の暗号を解読したので、連合国の作戦を知ることができた。でも、アメリカには先住民のナバホ族がいた。ナバホ族の男性たちは、ナバホ語を使ってドイツ人をまどわし、戦局を好転させた、というわけだ。

史上最大の作戦

 1944年6月6日(通称D-デイ)、連合軍の軍艦がフランスのノルマンディーに上陸する。これは史上最大の水陸両用(上陸)作戦といわれている。

 連合国が別の場所から侵入してくると思っていたドイツは、対応で遅れを取ってしまった。こうして、D-デイは、連合軍が攻勢に転じ、イタリア、ドイツ、日本の枢軸国を破った、記念すべき日となったのだ。

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 ドイツに占領されたフランスなどの国々は、すぐさま解放され、1944年12月、連合軍がベルギーのバルジの戦い(バルジとは、膨らみのこと。連合軍の戦線が形成した泡のような形から、こう呼ばれる。ドイツ軍がある場所で連合軍を押し返したとき、この形が生まれたのだ。アルデンヌの戦いともいう。)で、ドイツを破った。

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ヒトラーの最期

 続けて、連合軍はドイツ北部へと進軍し、ソ連軍と合流した。1943年時点で、ソ連軍は着実に前進を続けていて、ウクライナを取り戻し、ポーランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアへと進んでいた。そして、1945年4月、とうとうベルリンにまで到達する。

 ベルリン市の地下壕に立てこもったヒトラーは、最終的な政治的声明を記し、いまだに第一次世界大戦後と第二次世界大戦の責任をユダヤ人になすりつけようとしていた。

 4月30日、イタリアの抵抗勢力がムッソリーニを処刑してから数日後、ヒトラーは自殺した。

 5月7日、ドイツは降伏し、ヨーロッパ戦勝記念日(VEデー)として知られる1945年5月8日、連合軍はついに勝利を宣言した。こうして、ヨーロッパでの戦争は終結したけれど、アメリカはまだ日本と戦っていた。

ヤルタ会談とポツダム会談

 連合国の勝利が明白になると、連合国の首脳たちが会い、次なる戦争を防ぐ方法について話し合った。

 1945年2月、チャーチル、ローズヴェルト、スターリンのビッグスリーがヤルタ会談を開き、戦争を防ぐためには、国際連盟よりも優れた平和維持組織が必要だということで、意見をまとめた。

 7月には、アメリカのハリー=S=トルーマン大統領(4月のローズヴェルトの急死で、副大統領から大統領に昇格)、チャーチル、同じくイギリスのクレメント=アトリー(政権交替により途中から参加)、スターリンが、ポツダム会談を開くにいたった。

 彼らは、ドイツを4つの区域に分けることを決めた。また、ベルリンの都市も、4つに分割されることになった。

 そして、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連が、それぞれの区域を支配した、というわけだ。

14歳からわかる「第二次世界大戦」とヒトラーが台頭したワケ

原子爆弾の投下

 1945年8月6日、アメリカはトルーマン大統領の命令で、日本に原子爆弾を落とした。原子爆弾の威力は、核分裂の連鎖反応によって生まれるもので、広島の街をあっという間に破壊してしまった。

 日本が降伏をこばむと、アメリカは1945年8月9日、こんどは長崎に、ふたつ目の原子爆弾を投下した。ふたつの爆発と、大量の放射線の被曝により、数十万人の日本人が亡くなった。そして、終戦記念日となる1945年8月15日、日本の昭和天皇裕仁は、無条件降伏を受け入れ、9月2日に和平協定に署名した。

 こうして、第二次世界大戦はようやく正式に終わりを告げたのだ。

ニュルンベルク裁判

 1945年11月、ドイツのニュルンベルクで、ニュルンベルク裁判が始まり、ナチ党が人道に対する罪で裁かれた。裁判の第1弾では、22人のナチ党関係者が被告となり、12人が処刑された。

 続く裁判でも、100人以上が有罪を宣告された。東京でも似たような軍事裁判が開かれ(東京裁判(極東国際軍事裁判))、東条英機のほかに6人の日本の指導者が、死刑宣告を受けた。

第二次世界大戦の被害

 第二次世界大戦中、最低でも4000万人(推定によってはその3倍)の市民と、最低でも1700万人(これも、新しい調査によればもっと多数)の戦闘員が、命を落としたといわれる。

 こうして、第二次世界大戦は、史上最多の命を奪った軍事紛争となった。そして、核兵器は、新たな脅威と戦争の時代をもたらしたといえるだろう。

(※本原稿は『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』を抜粋・再編集したものです)