発売されるや、一般読者だけでなく専門家からも「ワクワクして眠れなくなる」「大発見が散りばめられている」と絶賛の声が寄せられている異色のファイナンス本、『新解釈 コーポレートファイナンス理論 「企業価値を拡大すべき」って本当ですか?』
この連載では、著者・宮川壽夫教授(大阪公立大学大学院)のガイドのもと、同書の一部を転載・紹介していきます。今回はコーポレートファイナンス理論の重要テーマ、「完全市場」とそれを前提にした「MM理論」についてです。についてです。

『新解釈 コーポレートファイナンス理論』書影

完全市場がファイナンス理論を発展させてきた

 完全市場という前提はファイナンス理論を批判するための決定的な標的になってきたと同時に、一方でファイナンス理論を発展させてきた無くてはならない前提でもある。

 完全市場では、まず税金や株式の取引費用などは存在しない。また、どんな情報も株式市場の隅々までつつぬけになっていて、企業も市場に参加する投資家も入手可能なあらゆる情報を瞬間的に利用できることになっている。いわゆる「情報の非対称性(asymmetric information)」がないことを前提としている。したがって、市場で取引されるすべての資産にはすでに周知の情報が隈なく反映されて価格付けされており、その価格でだれもがいくらでも躊躇することなく瞬間的に売買することが可能だ。

 さらには、あらゆる契約関係が間違いなく履行される、つまりみんなが約束を守るし、だれもが守れない約束はしないし、決してウソなどつく人はこの世に存在しない(そもそもウソというものが成立しない)という、『アルプスの少女ハイジ』のおじいさんのような潔癖な人間関係が成立していることも完全市場の条件である。そのかわり、実は市場に参加するすべての人は期待収益率とリスクを計算しながら自分だけが満足(効用最大化)できるように競争しているという、『アルプスの少女ハイジ』とはかけ離れた性格の人々を想定している。

完全市場の世界Photo: Adobe Stock

 コーポレートファイナンス理論には、この完全市場を前提にしたMM理論という重要なテーマがある。フランコ・モジリアーニとマートン・ミラーが1958年7月の『アメリカン・エコノミック・レビュー』に論文を発表するまでは、どの企業にとっても資金調達の選択は財務戦略における悩みのひとつだった。企業価値を拡大するためには、一体どれくらいを負債で調達し、どれくらいを資本で調達すべきかという、いわゆる企業の資本構成の問題だ。

 つまり負債と資本の構成比率をいろいろと工夫すれば、なんとか企業価値を拡大することができるのではないか、逆に資本構成を間違えると企業価値を毀損させることになるだろうとずっと考えられていたわけだ。

 これに対してモジリアーニとミラーは「資本構成は企業価値に影響しない」と言い切ったのだから世の中はたいそう驚いた。ただし、MM理論には「完全市場だったらね」という条件がつけられていた。要するに完全市場の下では、企業が獲得するキャッシュフローの不確実性に応じて、資本と負債が自在に調整されるので、資本構成は企業価値とは無関係だという結論になっている。ありもしない完全市場を条件にした結論なんて一体なんの役に立つんだろうと考える人が多いかもしれない。しかし、MM理論の慧眼は完全市場の条件をひとつひとつ緩和することによって資本構成が企業価値に影響を与える理由をすっきりと証明して見せたところにある。

 たとえば完全市場では税金はないものと考えるが、税金という存在を考慮すると負債調達による節税効果が企業価値にプラスの影響を与えるということが明らかになる。あるいは、情報の非対称性はないという完全市場の条件を緩めれば、資金調達の方法が投資家に一定の情報を与えることになって企業価値に影響を及ぼすということがわかる。

 このようにして完全市場を前提としたMM理論をきっかけに、数多くの資本構成に関する研究が大きく進歩することになったわけだ。MM理論のこうした大きな貢献がノーベル経済学賞にふさわしいことは言うまでもない。

 ただ、MM理論はさらに広い視野で企業の経営に対する示唆を行っている。貸借対照表の右側つまり資本構成のために資金調達の方法を考えることは、現実の世界において企業価値に影響を与える可能性はあるかもしれない。しかし、そんなことより貸借対照表の左側、どこにどのような投資を行うか、キャッシュを生む資産に投資を行い、キャッシュを生まない資産への投資をやめる、という判断を行うことのほうが企業価値を高めるためには重要だ。企業価値を高めようと思えば、要するにカネの集め方よりもカネの使い方を真剣に考えなければならない。企業経営にとってとてもまっとうな示唆をしている。

 完全ではない現実世界においては、資本構成を工夫すれば企業価値を拡大できるかもしれないし、配当政策を変更すれば企業価値を拡大できるかもしれないし、自己株を取得してROEを改善すれば企業価値が拡大するかもしれないし、あるいはガバナンスがよければ、ESGの開示をすることにより企業価値は拡大するかもしれない。しかし、このような工夫が企業価値を拡大させるとしてもそれはおそらく実にわずかなことで実に不確かな話だ。企業価値を拡大するには、自社の固有の競争力を発揮して他社との競争に勝って獲得するキャッシュフローを増やす以外には結局のところない、と考えたほうがいいだろう。