自分の境遇や人生の出来事を必然と考えるか、偶然と考えるか。ハッピーなことは「必然」と考え、ドツボのときは「偶然」で済ます。精神衛生上は、それがいい気がするが、人間的に成長しない気もする。「努力すると運まで開ける」とよく言われるが、きれいごとを言うなと思う半面、うなずけるところも多々ある。人生は運か、努力か。どう考えるべきか――『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)より、いま最も注目される哲学者・古田徹也さんに教えていただこう。
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私の日々の主要な仕事は、大学で授業を行うことだ。授業の場では、毎回最後に学生たちにコメント(授業の内容に関する質問や意見など)を書いてもらうことにしている。いまから4~5年前、運と道徳の関係を主題とする講義を行っていたとき、学生のコメントのなかに、何度も「親ガチャ」という言葉が出てきた。
「ガチャ」とは、元々はあの「ガチャガチャ」や「ガチャポン」、つまり、硬貨を入れてレバーを回すことでカプセル入りのおもちゃが出てくる装置に由来する言葉だ。(ちなみに、この種の自動販売機、ないしはそこで売られているおもちゃは、「カプセルトイ」と総称されるらしい。)だがいまや、「ガチャ」はスマホなどのソーシャルゲームに組み込まれたクジ引きの類いを指すのが普通だ。たとえば、一定のお金を払ってクジを引く――「ガチャを回す」――ことによって、運よくレアなアイテムを手に入れたり、逆にハズレを引いてお金が無駄になったりする、という具合である。
そして、そこからさらに転じて、「親ガチャ」という言葉は、子がどんな両親の下に生まれるかという運を表現しているようだ。たとえば、「親ガチャに外れた」という表現は、自分が貧乏な家庭に生まれ育ったことや、親が虐待をする人間であったことなどを意味するというわけだ。
確かに、私たちは自分の生みの親を選べなかった。しかしそれを言うなら、いまの自分をかたちづくる物事の大半は「ガチャ」を引いた結果ということにならないだろうか。実際、「顔ガチャ」という表現もネット上などではよく使われている。つまり、「イケメン」に生まれるか「ブサイク」に生まれるか、という運のことだ。ほかにも、「体ガチャ」、「地元ガチャ」、「国ガチャ」、「時代ガチャ」……何でも言えそうだ。