1982年に「少女A」で鮮烈なデビューを飾った中森明菜。松田聖子が席巻していた時代に、明菜が放った一曲が“二大アイドル競争時代”の始まりを告げるきっかけになったという。松田聖子と中森明菜の対立構造を明確にした84年を振り返る。渡邉裕二『中森明菜の真実』(エムディエヌコーポレーション)より一部を抜粋・編集してお送りする。

明菜の“自我”が目覚めた
「北ウイング」

 満を持して発売した明菜の第七弾シングル「北ウイング」は一位に届かず最高位も二位という記録に終わった。

写真:中森明菜Photo:JIJI

「正直言って悔しい気持ちはありました」と言うのは、同曲の作曲とアレンジを務めた林哲司だ。

「誰もが発売前から初登場一位になることを疑っていませんでしたからね。そういった意味でのプレッシャーはありましたが、一方で作品には自信を持っていたことは確かなので、結果は結果で『そうだったんだ』『仕方ないよね』ということしかありません」。

 とはいっても「チャートが気にならない」と言えばウソになる。

「初登場二位と聞かされた時は『えっ!』って思わず言っていたような気がします。ただ、チャートが作品を評価するものではないですからね。今でも『北ウイング』が明菜さんの代表曲の一つに数えられていることは良かったと思っています」

 もっとも、オリコンのチャートでは一位を逃したものの、当時、圧倒的な視聴率を誇っていた「ザ・ベストテン」では一月一九日放送から二月一六日放送まで何と五週連続で一位にランクされた。

 ワーナーで明菜のプロモートを担当していた田中は振り返る。

「とにかく、明菜の場合は一回一回積み上げていくというか、歌うごとにクオリティーが高まっていくんですよ。もちろん明菜の努力もありましたが、持って生まれた才能なんでしょうね。『北ウイング』は、歌うごとにレベルアップしていったんです」

 続けて「だからということでもないのかもしれませんが」と断りつつ、

「『ザ・ベストテン』に出演してきて、初登場で一位に輝いたのは『北ウイング』が初めてだったんです。それも、わらべや松田聖子『瞳はダイアモンド』、杏里『悲しみが止まらない』、ALFEE(現:THE ALFEE)『星空のディスタンス』などヒット曲が激戦する中で五週連続でトップ独走でしたからね。これは視聴者の楽曲に対する評価だったと改めて思っています」

 しかも、田中によると「この頃から作品に対してはもちろんですが、衣装についても自身のセンスを反映させ始めるようになっていた」と言う。