今年6月、Appleは満を持してVR/ARゴーグル「Vision Pro」を発表した。価格は3499ドル(約50万円)で、アメリカでの発売は来年の予定だ。当初は大きく報道されたものの、一般ユーザーが気軽に購入できる価格でないこともあってか、期待感はさほど盛り上がっていないようだ。
はたしてメタバースは社会を大きく変えるのか? それともVRゴーグルはたんなるゲームツールにすぎないのか? 今回はVR研究の第一人者であるジェレミー・ベイレンソン(スタンフォード大学教授)の『VRは脳をどう変えるか? 仮想現実の心理学』(倉田幸信訳、文藝春秋)に依拠しながら、仮想現実について考えてみたい。原題は“Experience on Demand; What Virtual Reality Is, How It Works, And What It Can Do(オンデマンドの経験 ヴァーチャルリアリティとは何か、それはどうワークするのか、そしてなにができるのか)”。
なお、Virtual(ヴァーチャル)を「仮想」と訳すことは不適切との指摘がある。仮想は「実在(リアル)」に対する「虚構(フィクション)」のように思われているが、本来のVirtualの意味は「実在ではないものの、(テクノロジーによって)実在と同等の効果をもつこと」なので、“本物”の世界と“仮”の世界があるわけではないというのだ。
なぜわざわざこのことを書くかというと、本書の原題“Experience on Demand(オンデマンドの経験)”にかかわってくるからだ。ベイレンソンの主張は、「VRの経験は(いつでも呼び出せる)オンデマンドのものだが、それでも実際の経験と同じだ」になる。とはいえ、「仮想」に代わるVirtualの定まった訳語があるわけではないので、本稿でもこの意味で「仮想現実」を使っている。
ザッカーバーグは確固たる信念のもと、社名を「Meta Platforms」に変更した
21年10月、Facebookの創業者でCEOでもあるマーク・ザッカーバーグは親しまれてきた社名を「Meta Platforms(メタプラットフォームズ:商号Meta)」に変更すると発表して世界を驚かせた。
ザッカーバーグによれば、これからヴァーチャル世界は、現実世界と同等か、あるいはそれを上まわる巨大な市場に成長し、Metaはそこで最強のプラットフォーマーになるのだという。この社名には、これまで自社のSNSで提供してきた「テキスト」「画像」「動画」といった二次元のサービスを、三次元のメタバースへと移行していく壮大な野望があった。
2018年、Facebookから最大8700万人の個人情報が流出し、それがトランプ陣営のPsyop(サイオプ:心理作戦)に悪用されたとはげしい批判を浴びだ。ケンブリッジ・アナリティカなるあやしげなコンサルティング会社や、ロシアの諜報機関がアメリカの有権者を心理的に操って、トランプ勝利という(リベラルにとっての)悪夢を生み出したというのだ(この“陰謀論”については、トランプ陣営がSNSでの心理操作を試みたとしても、選挙結果を左右するほどの効果をあげたとは考えられないとする専門家もいる)。
このスキャンダルによって、ザッカーバーグは米議会の公聴会で証言する事態に追い込まれた。突然の社名変更は悪評から逃れるためとの憶測も流れ、たしかにそういう理由もあったかもしれないが、ベイレンソンによればザッカーバーグには確固たる信念があった。なぜそれがわかるかというと、2014年3月、ザッカーバーグはスタンフォード大学のベイレンソンの研究室を訪れ、最先端のVRを体験しているからだ。
ザッカーバーグは、地上30フィート(約9メートル)の高さにある細い板を渡ったり、三本目の腕を生やしてみたり、スーパーマンのように空を飛んだり、サメとなってサンゴ礁を泳ぎ回ったり、老人の身体になったりした。この体験の数週間後、ザッカーバーグはHMD(ヘッドマウントディスプレイ)を製造するベンチャー企業オキュラスを20億ドル超で買収した。
2020年に発売されたMeta Quest 2は普及を優先して価格を下げたこともあり、2年間で1500万台と「史上もっとも成功したVRヘッドセット」になったが、スマートフォンと比べればその存在感はわずかだ。メタバース事業の赤字も拡大しており、22年度の赤字は137億ドル(約2兆円)に達した。それにともなって株価も大幅に下落し、コロナ禍での最高値350ドル(21年8月)から22年11月には3分の1以下の100ドル割れまで下落、2万人を超える大規模なレイオフに追い込まれた(現在、株価は300ドル超まで回復している)。
こうした経緯を見る限り、ザッカーバーグの社運を賭けた挑戦はいまだ実を結ばず、市場はVRの将来に懐疑的ということになるだろう。
「VR経験は現実のように感じられ、人はそこから実際の経験に近い影響を受ける」
ベイレンソンは、VRは「人類の歴史上で最も心理的に強い効果を持つメディア」で、とてつもない影響力を発揮するという。
アメリカンフットボールは肉弾戦のイメージが強いが、実際には高度な作戦によって試合が進み、選手は試合以外のほとんどの時間、プレイブック(攻撃や守備における各選手の動きを図解入りで記した作戦集)を熟読し、試合のビデオを見て、監督・コーチ陣が考えた「多彩で現代的なオフェンス戦略」を記憶する。――この過程は「インストールする」と呼ばれる。
とりわけ攻撃の司令塔であるQB(クォーターバック)は、1試合ごとに170種類もの作戦を「インストール」しなければならない。そこでベイレンソンのスタッフが、この練習にVRを使うことを提案したところ、最初は懐疑的だったアリゾナ・カーディナルスのベテランQBカーソン・パーマーは、プレイブックやタブレットPCなどは「太古の技術」で、「これ(VR)には完全にやられた。文字通り、週に六日間使っている。毎週繰り返す試合の準備には欠かせない存在だよ」と語るまでになった。そして、「経験っていうのは、ものすごく役に立つんだ」と付け加えた。
QBが戦術練習をするときに、毎回、グラウンドに選手を配置し、試合と同じ状況をつくることはできない。もちろん理屈のうえでは可能だが、そのためには許容できる上限をはるかに超えるコストがかかる。
ここから、VRは「大きなコストが必要な経験」をともなう訓練に最適であることがわかる。もっともよく使われているのがフライトシュミュレーターで、パイロットに乱気流などの極限状況を体験させるために実際にジャンボジェットを飛ばすわけにはいかない。外科医になるための実技訓練も同じで、練習台として患者の身体を切り刻むことはできない。
こうした訓練が効果的なのは、「VR経験は現実のように感じられ、人はそこから実際の経験に近い影響を受ける」からだ。すくなくとも視覚と聴覚に関しては、VRは「一種の経験製造機」なのだ。
2014年、ドイツの心理学者が24時間をVRルームで過ごすという“人体実験”を行ない、「実験中、被験者(研究者自身)は数回にわたり、自分がVE(仮想環境)にいるのか現実世界にいるのか混乱をきたし、一部のモノや出来事についてもそれが仮想世界に属するのか現実世界に属するのかを取り違えた」と報告した。
2008年、幼稚園から小学校低学年までの子どもを対象としたベイレンソンらの実験では、クジラと一緒に泳ぐVRを経験した子どもの多くは、(VRで見たのではなく)自分が実際にシーワールドに遊びに行ってシャチを見たのだというニセモノの記憶(虚偽記憶)をつくっていた。
2007年に心理学者のグループが行なった実験では、学習タスクで答えを間違えるたびに電気ショックを受けて痛がる人間の映像(実際は役者が演じている)を見せたうえで、これから同じ課題が与えられる(自分も電気ショックを受けるにちがいない)と信じ込ませた。そのときの脳の様子をfMRIで観察すると、ビデオを見ているときも、自ら学習タスクを行なっているときも、小脳扁桃の活性化から読み取れる恐怖反応が起きていることがわかった。研究者は、「実験の結果から、間接的に感じられる恐怖であっても、直接的な経験から生じる恐怖と同じだけの強さを持つのではないかと考えられる」と報告している。
このように脳は、ヴァーチャルな経験と現実の経験をほとんど区別できないらしい。頭蓋骨に格納された臓器である脳は、実在であれ仮想であれ、同じ刺激が入力されれば同じ反応を返すだけなのだ。
これが、一人称視点のVR暴力ゲームが発売されない理由になっている。「二次元のTVモニターの中で人を撃ち殺すのと、VRの世界で人を撃ち殺すのでは、まったく感じ方がちがう」のだ。あるゲームデザイナーは、「(VRゲーム内で)死を見なくていいようにする。あえてそのようにしたのです。生々しすぎるので。VRでは死を含めすべての物事がはるかに強烈に感じられるのです」とこのルールを説明した。
ただし2011年の最高裁判決で、アメリカでは暴力的なゲームは憲法で保障された「表現の自由」に含まれるとされたため、大量殺人の3Dゲームをつくるのは自由だという。