「身体能力を向上させるために必要なのは『トレーニング』『リカバリー』『栄養』の3つのメソッドです」と語るのは、大坂なおみや錦織圭ら数々の選手を世界トップレベルに導いたフィジカル・トレーナー中村豊。この3つを適切に行えば、誰もが身心を健全に整えられるとして実践方法をまとめたのが『世界最高のフィジカル・マネジメント』です。本連載では同書からさまざまなメソッドを紹介していきます。
いかにしてメンタルを整えるか。これは複雑化した現代社会に生きる私たちにとって、とても現実的な問題です。スポーツの世界では、早くからメンタルをいかに強く保つか、という研究がなされてきました。その先駆者がジム・レーヤーというスポーツ心理学者です。彼の考えは、今やスポーツ界のみならず多くのビジネスパーソンに信奉されています。レーヤー博士から直接指導を受けた中村トレーナーが、そのメンタルタフネスについて紹介します。
メンタルタフネスの教組
ジム・レーヤー博士の教えとは?
メンタルを整えることは、心と身体をリカバリーするうえで非常に重要です。スポーツ界でもメンタルの重要性は最近特に注目されています。
僕自身がメンタルについて意識したのは、中学生の時にスポーツ心理学者であるジム・レーヤーが書いた『メンタル・タフネス:勝つためのスポーツ科学』(邦訳/CCCメディアハウス)という本に出会ってからです。著者であるレーヤー博士によると、メンタルを鍛えることは練習やトレーニングに匹敵するくらい重要で、勝利に直結するというのです。
その本が出版された当時は、マルチナ・ナブラチロワやイワン・レンドルといった共産圏のテニスプレーヤーが、スポーツ心理学を学びメンタル強化に力を入れ始めた時期でした。
そしてナブラチロワやレンドルが、鉄壁のメンタルを武器に世界ナンバーワンに登り詰めたことで、その有効性が広く知られるようになったのです。
今でこそスポーツにおいてメンタルの重要性は当たり前に語られていますが、当時は画期的な思考法でした。レーヤー博士はメンタルの強化を科学的に分析し、そのための具体的な方法を提示してくれたのです。
テニスはインターバルの長い競技で、ポイント間に時間があり2ゲーム毎に休憩時間も取られます。様々な雑念が浮かんでしまうその時間に、メンタルを平静に保つには実際に何をすればいいのか。
レーヤー博士はまず目線に注目しました。ポイント間にラケットのガットを見つめて指で隙間を整えることで目線を集中させるのです。すると気持ちが落ち着き、マイナスの思考回路も解消できるというのです。
また彼はルーティンの重要性にもいち早く気づいていました。サーブの前にコートにボールをつく回数を決めておいて、その間にメンタルを整えるとか、ポイント間には必ずタオルで汗をぬぐうとか、決まったルーティンを行うことで集中力を持続させるというわけです。
さらに、ポジティブシンキングについても提唱しています。ミスがあっても次のプレーに入る前にマイナスイメージを払拭すべきだ、自分が打った最高のボールを頭に描きなさい、といった提言を行ったのです。
それまでは「集中しろ」と声をかけはしても、ポイント間に具体的に何をすべきかアドバイスできるコーチは皆無でした。
こういったレーヤー博士の教えは、アスリートだけでなく、一般の方々にも適用できると思います。その後、スポーツ生理学が進化して、レーヤー博士が提言するメンタルタフネスと運動生理学が融合して、現在のメンタルリカバリーという考え方に至っています。
レーヤー博士はスポーツ界で得た知識や経験を、ビジネス界にまで浸透させていきました。彼の名はアメリカではスポーツ界のみならずビジネスパーソンにも広く知られていて、その理論は多くの企業のトップたちに影響を与えています。
レーヤー博士本人は
本当にメンタルタフネスだったのか?
僕は元々トレーナーではなく、プロテニスプレーヤーを目指していました。そのため高校卒業後にアメリカに渡り、ハリーホップマン・テニスアカデミーに留学しました。アカデミーにはレーヤー博士も在籍していて、幸いにも直接指導を受けることができたのです。自分のバイブルの著者に実際に会えた際は、感激もひとしおでした。
その時のちょっとしたエピソードがあります。
当時レーヤー博士が指導していたピート・サンプラス、アンドレ・アガシ、ジム・クーリエといった若手選手が、一気にテニス界のトップに駆け上がっていったのです。そのためアカデミー内でもレーヤー博士はカリスマ的な存在で、生徒たちはみな彼のことを崇拝していました。
ある日、レーヤー博士自身もテニスをプレーするという話を耳にしました。レベルはそこそこだが競争心は人一倍だという噂です。そこで僕たちも勉強のため一度彼のプレーを見ておこうと、週末に生徒たちで練習を覗きに行ったのです。
レーヤー博士は、試合中にいかに感情をコントロールするか、そのためのラケットの持ち方、リラックスする姿勢、ルーティン化といったことを細かく指導してくれていました。
僕たちはそういった講義を受けていたので、彼自身はプレー中にどれだけ凄いメンタルコントロールを実践しているのだろう、と興味津々だったわけです。
レーヤー博士がいるコートを見つけた僕たちは、練習の妨げにならないようにひっそりと見学していました。
一通りの練習が終わり試合が始まりました。すると数分もたたないうちに1人のプレーヤーが、怒りのあまりラケットを放り投げたのです。なんと、そのプレーヤーはレーヤー博士でした。それを見て僕たちは大笑いしてしまいました。
(本原稿は中村豊『世界最高のフィジカル・マネジメント』から一部を抜粋・編集して掲載しています)
ストレングス&コンディショニングコーチ
1972年生まれ。高校卒業後アメリカにテニス留学。スポーツトレーナーという職業に興味を持ち、カリフォルニア州チャップマン大学で運動生理学、スポーツサイエンスを学ぶ。1998年、サドルブルック・テニスアカデミーのトレーニングコーチに就任。2000年、女子テニスプレーヤー、ジェニファー・カプリアティのトレーナーに就任し、翌年世界No.1に導く。2004年よりIMGアカデミーに所属し、錦織圭のトレーニングを14歳から20歳まで受け持つ。2011年よりマリア・シャラポワの専属トレーナーに就任。シャラポワの黄金期を7年間支える。2020年6月、大坂なおみの専属トレーナーに就任。わずか2ヵ月でスランプに陥っていた大坂を再生させ、全米、全豪と立て続けのメジャータイトル奪取に貢献。世界のプロスポーツ界で最も注目されるフィジカルトレーナーのひとり。トレーナーとしての豊富な経験と知識を生かし、一般の人に向けた入門書『世界最高のフィジカル・マネジメント』を上梓した。