錦織圭、マリア・シャラポワ、大坂なおみ、ネリー・コルダ……指導した数々の選手を世界トップレベルに導いてきたトレーナー界のカリスマ、中村豊。彼に指導を受けた選手たちは、アスリートとして大幅なステップアップを遂げています。
中村はトレーニングによってのみ身体能力が向上するわけではなく、必要なのは「トレーニング」「リカバリー」「栄養」の3つのメソッドだと語ります。そして、この3つを適切に行えば、一般の人でも身心が健全に整い、若さを持続できると主張するのです。その実践方法を分かりやすく具体的にまとめたのが、中村の初著書『世界最高のフィジカル・マネジメント』です。本連載では同書から「世界トップの選手に対する指導法」や「そこから導き出した誰もが健全な身心を獲得できるメソッド」をお伝えしていきます。
中村トレーナーが大坂なおみを初めて見たのは、対シャラポワ戦。当時無名だった大坂は女王シャラポワを圧倒し、中村はそのプレーに衝撃を受けました。2年後、グランドスラムを連覇しながらもスランプに陥った大坂が、復活の起爆剤として白羽の矢を立てたのが中村でした。中村は大坂のトレーナーを引き受けるかどうかを決めるため、彼女に一つの質問を投げかけます……。
大坂なおみ、覚醒する才能
私の元に大坂なおみのエージェントから連絡があったのは、シャラポワが引退した2020年のことです。
なおみのことはデビュー当時から注目はしていました。日本人関係者達から物凄い逸材がいる、と聞いていたからです。実際に彼女のプレーを目の当たりにしたのは2018年のインディアンウェルズ・マスターズ。僕はまだシャラポワに帯同していた頃で、1回戦の相手がなおみだったのです。当時の彼女は世界ランク44位で一般にはさほど知られていないプレーヤー。それが女王シャラポワをセットカウント2対0と圧倒したのです。
そのエネルギッシュなプレー、男子並みの強烈なサービスと、それを支える強靱な肩、とにかく衝撃を受けました。特に僕の印象に残ったのは、彼女も錦織圭と同様にボールをハードヒットできるという能力を持っている部分です。結局、その大会でなおみは勝ち進みツアー初優勝を遂げました。そしてその勢いのまま、その年の全米オープンを制覇したのです。
僕は彼女が覚醒する瞬間に立ち会っていたわけです。
なおみからの話があった時、ツアーからは引退したつもりでいた自分の心に再び炎が灯りました。彼女の底知れない才能、そして日本人プレーヤーと仕事ができるという喜び。
その頃のなおみは、2018年の全米、2019年の全豪と続けざまにグランドスラムを制覇して旋風を巻き起こした後の低迷状態にありました。
彼女のトレーナーを引き受けるに当たり、まず確認したかったのがその決意のほどです。僕がなおみに会って最初に尋ねたのは、今の自分の現状をどう思うか、ということでした。その頃のなおみの世界ランクは10位程度。今の自分の現状には全く満足していない、と彼女は語りました。そして自分はもっとグランドスラムのタイトルが欲しい、とハッキリと意思表示しました。僕もその言葉を彼女自身の口から聞きたかったのです。
マイナスの思考回路を断ち切る
秘密のトレーニング
大坂なおみは身体のポテンシャルが高いアスリートの典型です。テニス界でも五指に入るアスリートだと思います。そんななおみに対して、自分がどうプログラミングしていけるか、非常に楽しみな挑戦でした。
僕がまず取り組んだのは、アジリティ(敏捷性)の向上です。フットワークの精度を高めるためのトレーニング、上半身の肩甲骨周辺の動きを含めた身体全体の筋力アップ、心肺機能向上のトレーニングなどに力を入れました。
また攻撃に比べて守備力に難があったので、守備範囲を広げる練習を繰り返しました。その際、ボールを追う前に無理だと諦めてしまう思考回路をなくすため、あえて取れそうもないボールを投げて追いかけさせ、それでも諦めずに身体を動かす癖をつけたのです。この練習の効果で、以前は拾えなかった範囲のボールへの対応が格段に向上しました。
なおみはトレーニング嫌いというイメージが一般にはあるようです。僕がトレーナーについて最初に行われたグランドスラム、2020年全米オープンの際、WOWOWの放送にゲストで呼んでもらったことがあります。その時、解説の伊達公子(だて・きみこ)さんに、なおみをトレーニングに集中させるのは大変だったのでは、と問われたのですが全くそんなことはありません。彼女は人一倍勝利に貪欲で、そのための努力は惜しまない選手でした。
彼女はパワーのあるアスリートであると同時に日本人的な繊細さも併せ持っていました。そして僕の細かいアドバイスを注意深く聞いていて、しっかり実践するのです。指導していてとても楽しい選手でした。
また、なおみは栄養摂取にも敏感で、特にスムージーにはこだわりがあり、自ら作ってトレーニングの合間に飲んでいました。
2020年の6月からトレーニングをスタートして、なおみのプレーは明らかに進化しました。そして3ヵ月後の9月の全米オープンで優勝を遂げたのです。
その後も厳しいトレーニングを続けて次のグランドスラム全豪オープンに向かいました。全豪はサーフェス(コートの材質)によりボールが速くなるため、ボールが滑ります。重心を低くして動かないと的確なポジションに入れないので、下半身の軸を安定させリズム良く動くというトレーニングを重ねました。相手の速いサービスをブロックするために体幹の軸がブレないように下半身も鍛えました。
また、全豪ではフィジカルとメンタルを最高の状態に持っていくピーキングがうまくいきました。決勝に臨む前のインタビューで語った「準優勝では誰も覚えていてくれない。刻まれるのは優勝者の名前」という強気の言葉に、その時のメンタルの充実度が表れていましたね。
2021年の全豪での優勝は、僕にとって初めてのグランドスラム連覇の経験で、さらにコロナ下の大会だったこともあって非常に印象深かったです。また、なおみが準決勝でセレナ・ウイリアムズを破ったのも、シャラポワとは達成できなかった勝利でひとしお感慨深いものでした。
(本原稿は中村豊『世界最高のフィジカル・マネジメント』から一部を抜粋・編集して掲載しています)