「生活のために書き続けた」――天才と呼ばれた文豪…17歳からの過酷な現実
正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書『ビジネスエリートのための 教養としての文豪(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!

「父の借金を返すために、私は小説を書くしかなかった」…切なすぎる文豪とは?イラスト:塩井浩平
樋口一葉(ひぐち・いちよう 1872~1896年)
東京生まれ。本名・樋口奈津。代表作は『にごりえ』『十三夜』『たけくらべ』など。2004年から5000円札の肖像に採用された明治時代の小説家。東京府の下級官吏だった父の家庭に、次女として生まれる。
幼少期から知的好奇心が旺盛で歌人・中島歌子の私塾「萩はぎの舎や」に14歳で入門。文学の道を志すも事業に失敗した父が亡くなり、17歳で借金を肩代わり。母とともに生計を立てるため商売するも儲からず……と、お金の悩みが尽きないなか死に物狂いで生き、日本初の女性職業作家となる。明治29(1896)年、肺結核により24歳で夭折

「夭折(ようせつ)」という言葉、ご存じですか?

プロフィールの末尾に記した「夭折」という言葉を、ご存じでしょうか。「ようせつ」と読み、若くして亡くなることを意味します。

夭折した文豪」なんていうと、なんとなくドラマチックな響きがありますね。

24歳でこの世を去った、奇跡の文豪・樋口一葉

樋口一葉は「まだまだこれから」という24歳で夭折した文豪です。明治5(1872)年に生まれた一葉は、19歳で小説家を目指します。

たけくらべ』『にごりえ』『十三夜』など、後世に残る話題作を次々と書き上げたのは、驚くべきことに晩年のわずか14カ月のことです。

「奇跡の14カ月」が生まれた背景とは?

新たな才能が彗星のごとく現れたかと思えば、あっという間に亡くなってしまったので、出世作を生み出したその晩年は、「奇跡の14カ月」とも呼ばれます。

さて、そんな経緯を聞くと、「死ぬ間際に創作意欲を爆発させ、艶やかに散った天才」のようなイメージを持つかもしれませんが、実は一葉が創作活動を始めたきっかけは意外なものでした。

文学への情熱以上に、「生活」が先にあった

文学への志はあったのでしょうが、それ以上に、一葉には原稿料がどうしても必要な理由があったのです。

家族を守るため、日銭を稼ぐため、ストイックに書き続けた―これが一葉という作家の原点です。

事業に失敗した父親の借金を肩代わり

一葉の父・則義は、もともと徳川幕府の臣下でしたが、妻となる古屋多喜と駆け落ちをして一緒になりました。

明治維新を迎えると、まだ幕藩体制の名残りのあった明治9(1876)年に「廃刀令」が発せられ、特別の場合を除いて刀を身につけることができなくなりました。すると、侍たちは次々と路頭に迷うことになったのです。

それまでのキャリアがいっさい通用しなくなり、いまでいう「転職」も難しい……そういう時代の転機を迎えて、仕事を失った幕臣の多くは、当時の東京府の役人になったり、自分で事業を興したりしました。

しかし、一葉の父・則義は、あまりうまく世わたりできなかったのです。事業が失敗して多くの借金を抱え、その末に病没してしまいます。そこで父親の借金を肩代わりすることになったのが、当時17歳の一葉だったのです。

運命に翻弄された少女

きょうだいもいましたが、兄はすでに亡くなっており、姉は他家へ嫁いでいます。結局、一葉が父の借金を返すしかない状態でした。

星まわりが悪い」という表現がありますが、なんというか、一葉の人生を追っていくと、逐一そういう印象を受けます。

※本稿は、『ビジネスエリートのための 教養としての文豪(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。