人は「死にたい」と思ったとき、どうやってその気持ちと向き合っているのか?
本記事では、山口周氏が「決して寝る前に読み始めないこと。一度ページをめくってしまうと止めるのは不可能です。」と絶賛している話題書『極限の漂流118日間』をもとに、「海で生き残る人と死ぬ人を残酷に分断する、たった1つの違い」についてライター照宮氏が寄稿する。(構成/ダイヤモンド社・寺田庸二)
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自殺をしてはいけない理由
誰でも一度や二度は「死にたい」と思ったことがあるのではないだろうか。
現在の耐え難い苦痛、恐怖、不安から逃れるために、自ら未来を消してしまうという手段が頭をかすめる。
しかし、どんなに今が辛くとも「自殺はいけない」というのがスタンダードな認識である。
「親からもらった命を粗末にすべきでないから」
「残された家族や友人を深く傷つけることになるから」
「自殺によって解決できるという判断が、そもそも合理的でないから」
「生きていればいいことがあるはずなのに、それを放棄しているから」
など理由はさまざまに言われている。
極限状況で考える「自己決定権」
もちろん一般的に自殺を肯定することはできないし、私はその可能性を考えないようにして生きている。
しかし、『極限の漂流118日間』(ソフィー・エルムハースト著/村井章子訳)を読んで、死に対する「自己決定権」に思いを馳せることとなった。
『極限の漂流118日間』は、イギリス人夫婦が太平洋で遭難し、餓死や転覆の恐怖にさらされながら生き抜いたというサバイバル・ノンフィクションである。
奇跡的に救出されたからこうして本になっているが、誰からも見つけられないまま海に沈んでいてもおかしくなかった。
不安定な救命ラフトとボートで広大な海を漂うしかないという絶望的な状況である。
夫のモーリスは何度も自殺について考えている。具体的に方法をひとつひとつ検討している。
死ぬ未来しか見えないのであれば、どうすれば一番ラクに死ねるだろうかと考えるのも当然だという気がする。私も同じ立場に置かれたら同じように考えるだろう。
生き延びようとがんばることはできる。だがそれ以外のことはなるようにしかならない。
ふたりが自殺すれば話は別だ。自殺は、ふたりが、いや誰もが、自分の命に対して下すことのできる決定的な選択なのだから。
――『極限の漂流118日間』より
死に向き合い、「生きる力」を感じる
同時に、死を考えている人間は「生きている」のだというのも考えさせられた。
当たり前かもしれないが、生きる力が残っているから生きているのである。
だが一定の経過をたどらなければほんとうに死ぬにはいたらない。死にかかっている人間は、まだ生きているのである。
――『極限の漂流118日間』より
死に向かい合うことは、生に向かい合うことだ。自らの生命力や生きる力を感じることにもなる。
何度も自殺を考えたモーリスだったが、マラリンの励ましもあって生きる力を失うことがなかった。
そして、マラリンの生命力に尊敬の念を抱いている。マラリンは生きたいと強く思っていた。
人間は、最後の「自己決定権」を持っている。
そのうえで、極限状況でも生きたいと願う強さがある。
118日間の漂流という過酷な状況で生き延びたのだ。
今、もしかしたら辛い状況にある人も、希望を感じることができるかもしれない(苦しさを抱えている人は、一人で抱え込まずに専門機関等に相談してほしい)。
本書は「生」と「死」についてあらためて深く考えさせてくれる。








