時代を先取りした圧倒的な才覚を持ちながら、なぜ「悪者」として後世に語り継がれることになったのか? そして、激しい派閥争いの果てに国家が崩壊した歴史から、私たちは現代の組織づくりやリーダーシップについて何を学ぶべきか?『リーダーは世界史に学べ』をベースに、中国・宋の時代に国運を賭けた大改革に挑んだ王安石の足跡を紐解きます。

【歴史に学ぶ】反対派を敵に回すリーダーの痛すぎるNG行動・ワースト1Photo: Adobe Stock

「正しさ」を突き進んだ天才の末路

王安石(おう あんせき:1021~1086年)は、宋代の政治家、詩人、文学者。幼い頃から読書を好み頭脳明晰で、22歳できわめて難関とされた科挙(官僚採用試験)で4位の成績を収めて合格。通常、上位合格者は中央官僚に任命されるが、王安石は家族が多かったことから、収入が多い地方官を選び、各地で職務に励む。地方官としての任務に従事するなか、政治改革の必要性を訴える上奏文を皇帝に提出。その内容が高く評価され、皇帝の側近や副宰相に抜てきされ、数々の政治改革に着手。しかし、改革により既得権益を失うこととなった勢力からの強い反発を受け、最終的には失脚を余儀なくされた。文学者としても高い評価を得ており、唐代と宋代を代表する8人の名文家(唐宋八大家)の一人に数えられる。

危機を救うはずだった「改革」は
なぜ激しい反発を招いたのか?

王安石が、中国「宋」の時代に打ち出した「新法改革」。これは、国の財政難と社会の不安をどうにかして打開しようという、当時としてはとても画期的なチャレンジでした。しかし、その道のりは決して平坦なものではなく、のちの時代における評価も大きく分かれることになります。

1085年、王安石の改革を強くバックアップしていた神宗(しんそう)という皇帝が亡くなると、政治の流れはガラッと変わってしまいます。権力を握ったのは、改革に猛反対していた「旧法派」と呼ばれる保守的な官僚たちでした。

彼らは、王安石の仲間である「新法派」の人々を政府の中心から追い出し、王安石が作った政策を次々と白紙に戻してしまいました。王安石はその悲しい知らせを聞きながら、翌年の1086年にこの世を去りました。

その後、宋の国では「改革を進めたい新法派」と「改革を阻止したい旧法派」による、ドロドロの権力争いが続いていくことになります。

終わらない派閥争いが
ついに国を滅亡へと追い込む

「一方が権力を握れば、もう一方を徹底的に追い出す」――そんな報復合戦が繰り返されるうちに、新法派と旧法派の対立はどんどんエスカレートし、宋の政治はすっかり不安定になっていきました。

そして、王安石の死から41年後の1127年。北からやってきた別の民族(女真族)の国である「金(きん)」によって首都が陥落し、「北宋」と呼ばれた時代は滅亡の憂き目に遭います。その後、皇帝の一族がなんとか南へ逃げて国を建て直し、「南宋」として再スタートを切ることになりました。

もちろん、国が滅んだ原因のすべてを「王安石の改革」のせいにするのは酷かもしれません。しかし、この改革をきっかけに激化した派閥争いが、長期間にわたって国の政治をガタガタにしてしまったことは、歴史を振り返る上で見過ごせない事実です。