時代を先取りした圧倒的な才覚を持ちながら、なぜ「悪者」として後世に語り継がれることになったのか? そして、激しい派閥争いの果てに国家が崩壊した歴史から、私たちは現代の組織づくりやリーダーシップについて何を学ぶべきか?『リーダーは世界史に学べ』をベースに、中国・宋の時代に国運を賭けた大改革に挑んだ王安石の足跡を紐解きます。
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「正しさ」を突き進んだ天才の末路
危機を救うはずだった「改革」は
なぜ激しい反発を招いたのか?
王安石が、中国「宋」の時代に打ち出した「新法改革」。これは、国の財政難と社会の不安をどうにかして打開しようという、当時としてはとても画期的なチャレンジでした。しかし、その道のりは決して平坦なものではなく、のちの時代における評価も大きく分かれることになります。
1085年、王安石の改革を強くバックアップしていた神宗(しんそう)という皇帝が亡くなると、政治の流れはガラッと変わってしまいます。権力を握ったのは、改革に猛反対していた「旧法派」と呼ばれる保守的な官僚たちでした。
彼らは、王安石の仲間である「新法派」の人々を政府の中心から追い出し、王安石が作った政策を次々と白紙に戻してしまいました。王安石はその悲しい知らせを聞きながら、翌年の1086年にこの世を去りました。
その後、宋の国では「改革を進めたい新法派」と「改革を阻止したい旧法派」による、ドロドロの権力争いが続いていくことになります。
終わらない派閥争いが
ついに国を滅亡へと追い込む
「一方が権力を握れば、もう一方を徹底的に追い出す」――そんな報復合戦が繰り返されるうちに、新法派と旧法派の対立はどんどんエスカレートし、宋の政治はすっかり不安定になっていきました。
そして、王安石の死から41年後の1127年。北からやってきた別の民族(女真族)の国である「金(きん)」によって首都が陥落し、「北宋」と呼ばれた時代は滅亡の憂き目に遭います。その後、皇帝の一族がなんとか南へ逃げて国を建て直し、「南宋」として再スタートを切ることになりました。
もちろん、国が滅んだ原因のすべてを「王安石の改革」のせいにするのは酷かもしれません。しかし、この改革をきっかけに激化した派閥争いが、長期間にわたって国の政治をガタガタにしてしまったことは、歴史を振り返る上で見過ごせない事実です。



