著者が「AI学習」を
歓迎したくなる理由

 さて、そう考えると、このAIによる書籍の学習問題は、ひょっとすると日本人にとって良い側面のほうが多いのかもしれません。神田の古本屋の棚の中でただ朽ちて消えていくだけのはずだった知識が、人間をはるかに超えた英知によって再発見されようとしているのです。まさに知のルネッサンスではないでしょうか。

 そのことを著作権者はどう考えるべきでしょうか?さまざまな意見があるとは思います。実は私もそのひとりで、経済と経営に関しては過去、20~30冊ほどの著作を世に発表しています。

 残念なこととしては、その大半がすでに絶版となっていることです。

 そしてたまに自分が書いた本を読み返してみることがあるのですが、驚いたことに昔書いた本のほうがはるかに面白いのです。そう書いてしまうと、今、この記事を読んでいる皆さんはがっかりするかもしれませんね。でも40代の一番脂がのっているころの著作は、なかなかに鋭いのです。

 それがただ埋もれるくらいだったらAIに学習してもらったほうがいいのではないか。そしていつの日か「ナニナニの件については2000年代に評論家の鈴木貴博が主張したコレコレが最初の問題提起だった」といった形で、私の人生が掘り起こされるとしたら、著作者にとってそんな嬉しいことはないのかもしれません。

 さて、インターネットを補完する学習データという意味ではもうひとつ重要な「埋もれていくデータ」があります。それは昭和の時代の膨大なサブカルの歴史をつづってきた雑誌の情報です。

 自分自身が若かった当時でいえば、1980年代ならGORO、週刊プレイボーイ、ポパイといった情報誌が当時の大学生のライフスタイルの情報源そのものでした。社会情勢なら週刊SPA!や週刊ポストは欠かせません。

 こういった古い雑誌も神田の古書店を回るとある程度は手にはいるのですが、雑誌情報の宝庫として考えると、なんといっても大宅壮一文庫が日本の宝といっていい存在ではないかと思います。

「大衆誌・週刊誌・サブカルチャー誌まで網羅した日本唯一の雑誌図書館」として大宅壮一文庫は、かつてはジャーナリストにとってかかせない資料情報の拠点でした。ネットの普及と出版不況で入館者数は減少したのですが、それでも唯一無二の図書館として現在でも利用されています。

 大宅壮一文庫に限る話ではありませんが、高市政権がサブカル・アニメを成長戦略の柱としてコンテンツ産業に30兆円超の投資を呼び込もうと考えているのであれば、昭和から平成にかけての雑誌情報の電子化については最低でも数百億円の投資は行うべきではないでしょうか。

 それをAIに学習させる際のルールも政策として一緒に考えればいい。昭和の時代に日本人が積み上げてきた学術分野の蓄積と、サブカル分野の蓄積という二本柱の財産は、いずれもこのままでは神田の古書店の中で埋もれていく運命にあります。

 それをアメリカのAI企業が大枚をはたいて買いあさるのも「時代」なのでしょうけれども、日本政府はそれに対して何をどうするのか、煮え切らない態度をはっきりさせることこそが今、日本社会に問われているのではないでしょうか。

【前編を読む】人間にキルスイッチを押させない?「生存本能を持ったAI」を人類が管理できないワケ