「やってみたい」「自分にメリットがある」と思っていても、人はなかなか動かない。そこには、手間や不安、選択肢の多さ、他人の目といった“見えない摩擦”がある。Amazonのワンクリック購入やGMの下取り制度など、行動を広げた仕組みは何を取り除いたのか。『概念シフト』から人を動かす設計の共通点を、一部抜粋・編集して紹介する。(ダイヤモンド社書籍編集局)
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新しい行動を起こす時に生じる「摩擦」
「やってみたい」「自分にとってメリットがある」と思っていても、実際に行動を起こし、続けられるとは限らない。手間や不安、他者の視線など、行動を妨げるさまざまな「摩擦」があるからだ。新しい行動を促すには、こうした摩擦を見つけ、取り除くことが重要になる。例えば、「ジムに通う」という決断・行動で生じる摩擦を考えてみよう。
まず、今の生活リズムを変えて時間を捻出するのが億劫だ。これはスイッチングの摩擦である。さらに、いざやる気になっても、どのジムが良いかを探す手間がある。これは探索の摩擦だ。また、一度契約(コミット)すると簡単に解約できないのではないか、という不安もある。これはコミットメントの摩擦である。
契約しても、実際にトレーニングするまでには、ジムまで移動し、着替えるなどの面倒がある。いざトレーニングをしようとしても、マシンの使い方がわからないかもしれない。これらは実行手順・能力の摩擦だ。
トレーニング中、引き締まった体をした人を見て、「だらしない体を晒すのは恥ずかしい」と感じるかもしれない。「筋肉を鍛えることは自分らしくない」と思うかもしれない。他者との関係やアイデンティティから生じるこの恥や不安は社会・アイデンティティの摩擦である。
身近なジムの例で摩擦の種類を理解したところで、次は実際にどのようにこれらの摩擦を除去し、未知の行動を誘導したのか、歴史的な事例を見ていこう。
スイッチングの摩擦
新しい行動への誘導は、常に既存の習慣からの移行を伴う。そのため、たとえ新しい行動自体が容易なものであったとしても、人々を円滑に誘導できるとは限らない。既存の行動に対しては、その人自身が高い習熟度に達していたり、蓄積したポイントなどを放棄することへの心理的抵抗が生じたりするからである[※1]。これがスイッチングの摩擦だ。
この摩擦を除去するため、既存の行動習慣との結びつきを断ち切り、新たな行動へ促すための方策が必要だ。携帯電話契約において、他社からの乗り換え時に発生する違約金を負担したり、既存端末を下取りしたりするサービスは、人々が抱えるスイッチングの摩擦を取り除くための典型的な施策である。サービスを乗り換える際に、連絡先や以前のデータをすべて移行できるようにすることも同様だ。
こうした乗り換え促進策の歴史的起源とされるのが、GMが導入した自動車の「下取り制度」だ。これは当時市場を席巻していたフォード車からの乗り換えを促すことを意図したものであり、競合他社の製品であっても買い取ることで、顧客が感じるスイッチングの摩擦を低減させることに成功した[※2]。
探索の摩擦
続いて説明するのが「何を選べばよいかわからない」「探すのが面倒である」という探索の摩擦の解消である。人間は選択肢が多すぎると、比較検討に認知リソースを奪われ、結果として選択自体を先送りや放棄してしまうことがある[※3]。
この摩擦を解消するためには、選択肢をあらかじめ絞り込む、あるいは最適な組み合わせをパッケージ化して提示することが有効だ。ファーストフード店における「セットメニュー」や、レストランにおけるソムリエの提案、ECサイトや動画配信サービスにおけるレコメンデーション機能も同様の原理である。
この原理を活用し、これまで未知だった画像編集という行動を誘導した事例として、アドビの画像編集ソフト、フォトショップの事例が挙げられる。1988年、フォトショップは単体のソフトウェアとしてではなく、バーニースキャン社のスキャナーの付属品として初めて市場に出た[※4]。
高価なスキャナーを購入したプロユーザーにとって取り込んだ画像をどう加工するかという問題が発生する。ここで最適なソフトウェアを探すための探索の摩擦が生じてしまう。この問題を見越し、ハードウェアと編集ソフトをセットで提供することで、ユーザーは作業環境を整える手間から解放された。このバンドリングによる探索の摩擦の解消が、後のフォトショップのデファクトスタンダード化への重要な足がかりとなった。
コミットメントの摩擦
いざ行動を起こす際、一度に多大な負担を強いられることへの心理的抵抗がコミットメントの摩擦である。人間は、高額な初期費用や、長期的な拘束といった大きな決断を迫られると、失敗した場合のリスクを過大に見積もったり、より良い機会が新しく訪れたりする可能性を検討し、行動そのものを躊躇する可能性がある[※5]。この初期の負担を小さくすることが、コミットメントの摩擦解消である。
典型的な例は、ソフトウェアや動画配信などの「サブスクリプション」だろう。従来は数万円のパッケージを購入・所有する必要があったが、月額数百円程度の利用料に変換することで、導入時の金銭負担を大幅に低減させている。気に入らなければすぐに解約できるという安心感もコミットメントの摩擦を緩和し、導入を容易にする。
この原理を歴史的に確立した事例が、19世紀半ばの米国におけるシンガーミシンだ。当時、ミシンは革命的な発明であったが、その価格は平均的な家庭の年収の数分の1に相当した。どれほど便利な製品であっても、一括払いで購入できる層は限られていた。
そこで、共同経営者のエドワード・クラークは「分割払い」という画期的な販売手法を導入した。最初にわずかな頭金を支払えば、すぐに製品を持ち帰って使用でき、残金は毎月少しずつ支払えばよいという仕組みである。これにより、高嶺の花であったミシンに対する金銭的なコミットメントの摩擦が劇的に解消され、ミシンは中産階級の家庭へと爆発的に普及したという[※6]。
実行手順・能力の摩擦
行動を起こす直前に立ちはだかる障壁が、物理的な手間や能力の不足といった実行手順・能力の摩擦だ。人は、手順が複雑であったり、身体的な負荷が高かったりすると、たとえその商品を欲していたとしても、行動自体を断念してしまう可能性がある[※7]。この摩擦を解消するには、プロセスをなるべく簡略化し、必要とする能力や労力を最小化することが鍵となる。
典型的な例は、アマゾンの「ワンクリック購入」だ。オンラインショッピングで購入完了までに求められる複数のクリックを省略し、ボタンを一度押すだけで注文が完了する仕組みだ。
このような例は身近にもある。1937年にシルヴァン・ゴールドマンが考案したスーパーマーケットの「ショッピングカート」だ。
当時、スーパーマーケットでは手提げ式の買い物カゴが主流であった。しかし、カゴが商品で満たされ重くなると、客はそれ以上持ち歩くことが困難になり、まだ欲しいものがあっても買い物を切り上げてレジに向かってしまっていた。つまり、顧客の腕力という身体的な能力の限界が、購買行動の摩擦となっていたのである。
ゴールドマンは、カゴを載せる台に車輪をつけることで、重さという物理的な負荷を取り除いた。これにより、女性や高齢者であっても大量の商品を快適に運搬できるようになり、客単価は飛躍的に向上した[※8]。これは、顧客の能力拡張によって摩擦を解消した好例だ。
社会・アイデンティティの摩擦
新しい行動を阻む目に見えにくい摩擦として、他者の視線や社会的役割、あるいは「自分らしくない」と感じる社会・アイデンティティの摩擦がある。周囲からの役割期待や、自己イメージとの乖離から生じる羞恥心によって、本音に従った行動が抑制されることは珍しくない[※9]。この摩擦を解消するには、匿名化や遮断化、既存の社会的属性の一時的な無効化を実現する空間や仕組みの提供が有効だ。
典型的な例は、「カーブス」に代表される女性専用ジムだ。一般的なフィットネスクラブでは、異性の視線が気になり、体型や汗をかいて必死になる姿を見られることに抵抗(摩擦)を感じてしまう人もいる。そこで、男性の入会を禁止し、あえて鏡も設置しないことで、「見られる」という心理的抵抗感を排除している。
また、この社会的属性による摩擦を解消しようとした歴史的な知恵は、千利休が大成した茶室の「にじり口」と、ベネチアの「仮面舞踏会」である。
茶室の入り口であるにじり口は、刀を持ったままでは通れない狭さと高さに設計されている。これにより、武士は特権の象徴である刀を外に置き、頭を下げて身体を小さくして入室することを強制される。この物理的な仕掛けにより、主客が対等に交流するための空間として茶室が機能したという[※10]。
また、イタリアのベネチアで発展した仮面舞踏会も同様の原理だ。厳格な身分社会であった当時、人々は仮面で顔を隠すことで、貴族も平民も匿名性を獲得した。仮面によって社会的なしがらみから一時的に解放され、自由な振る舞いや交流が可能になった[※11]。これらは、特定の空間において「何者でもない自分」に戻ることを許容する行動誘導の方策だ。
注1 Burnham, T. A., Frels, J. K., & Mahajan, V. (2003). Consumer switching costs: A typology, antecedents, and consequences. Journal of the Academy of Marketing Science, 31(2), 109-126.
注2 アルフレッド・P・スローン Jr. (2003)『GMとともに』ダイヤモンド社(有賀裕子訳)。
注3 Iyengar, S. S., & Lepper, M. R. (2000). When choice is demotivating: Can one desire too much of a good thing? Journal of Personality and Social Psychology, 79(6), 995-1006.
注4 Shustek, L. J. (2013). Adobe Photoshop source code. Computer History Museum. https://computerhistory.org/blog/adobe-photoshop-source-code/(2026年2月3日閲覧)。
注5 Tversky, A., & Shafir, E. (1992). Choice under conflict: The dynamics of deferred decision. Psychological Science, 3(6), 358-361.
注6 Godley, A. (2006). Selling the sewing machine around the world: Singer’s international marketing strategies, 1850-1920. Enterprise & Society, 7(2), 266-314.
注7 Fogg, B. J. (2009).
注8 Grandcl●e●ment, C. (2009). Wheeling one’s groceries around the store: The invention of the shopping cart, 1936-1953. In W. Belasco & R. Horowitz (Eds.), Food chains: From farmyard to shopping cart (pp. 233-251). University of Pennsylvania Press.
注9 Oyserman, D. (2009). Identity-based motivation: Implications for action-readiness, procedural-readiness, and consumer behavior. Journal of Consumer Psychology, 19(3), 250-260.
注10 熊倉功夫(1990)『茶の湯の歴史 千利休まで』朝日新聞出版。
注11 Johnson, J. H. (2011). Venice incognito: Masks in the serene republic. University of California Press.







