日本に開国を迫ったことで知られるマシュー・ペリー。弱腰な江戸幕府に強く出ることで、何もかも思い通りにしたというイメージを持たれがちな人物だが、人知れず数多くの苦労に直面していた。実は、アメリカ政府から日本への遠征を命じられたときに、ペリーはいったん辞令を拒否。引き受けてからも、自国の政権交代に伴う外交方針の変化に、煮え湯を飲まされ続けた。ペリーの知られざる前半生や、日米和親条約締結に至るまでの苦難について著述家の真山知幸氏に寄稿いただいた(ダイヤモンド社書籍編集局)。
※本稿は『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)の関連原稿です。

ペリー提督Photo: Adobe Stock

開国を迫るペリーに生じていた「計算違い」とは

 大さん橋からの潮風が、波のように開港広場公園の石畳を撫でていく。横浜の喧騒が一瞬だけ息を潜めるこの地で、マシュー・ペリーはアメリカの代表として、江戸幕府と日米和親条約を締結する。安政元(1854)年3月のことだ。

 歴史の教科書に出てくるため、日本ではお馴染みのペリーだが、本国のアメリカではやや事情が異なる。有名なのはむしろ、ペリーの兄オリバーのほうである。

 思えば、日本においてもその知名度とは裏腹に、ペリーがどんな幼少期を過ごし、どんな思いで来日したのかまでは、ほとんど知られていない。

 ペリーが黒船を率いて現れると、江戸の街は大騒ぎとなったが、実はペリーも内心では動揺していた。想定外のことが多すぎる、と。

 はたして何があったのか。ペリーの前半生から振り返ってみよう。

国民的英雄となった兄の背中を追うペリー

 マシュー・ペリーは1794年、ロードアイランド州ニューポートで、アメリカ海軍大尉のクリストファー・レイモンド・ペリーと、妻セーラとの間に三男として生まれた。

 幼少期からヨットで海に出て遊んだペリーは、一番上の兄オリバーや次兄のレイモンドと同じく、自身も海軍を志すことになる。12歳頃には「海軍に入りたい」と口にするようになった。

 希望通りに1809年、ペリーは14歳で士官候補生として海軍に入隊。2カ月の基礎訓練を受けてから、兄オリバーが指揮する砲艦に配属され、初乗船を果たしている。

 このとき、24歳だった兄のオリバーは艦長を務め、砲艦隊の指揮官も担っていた。さらに4年後、28歳のときには、オリバーの艦隊がイギリス艦隊を撃破。オリバーはアメリカの国民的英雄として、その名を馳せることとなる。

 ペリーはそんな兄のまぶしい背中を追うように、自身も昇進を重ねる。

号令の声のデカさからついたあだ名は「熊オヤジ」

 ペリーは英国艦と数多くの戦闘を経験しながら、少尉に任官。ニューヨーク港に停泊中のプレジデント号に移る。

 ニューヨークの地で、商人のジョン・スライドルと懇意の仲になると、その娘で17歳のジェインと恋に落ちて、ペリーは20歳で結婚。夫婦となった二人は、10人もの子どもをもうけることになる。

 プライベートが充実すれば、仕事への活力もおのずと湧いてくるというものだ。海戦では指揮官として前線に立ち、ペリーはいつも勇猛に戦った。その姿は、いつしか艦隊の内外で評判を呼ぶ。

 27歳で少佐に昇進。規律にはことのほか厳しく、「熊オヤジ」というあだ名をつけられるほど、号令をかけるときの声が大きかったとか。

 以後も出世を重ねたペリーは1837年、43歳にして大佐に昇格する。日本にやってくるのは、それからさらに15年後のことである。

日本への遠征をいったんは固辞した

 1851年、ペリーは東洋艦隊司令長官への就任を打診される。

 前任のオーリック提督が、部下の艦長と揉めて解任。後任としてペリーに白羽の矢が立てられたのだが、どうも気乗りしなかったようだ。

 ペリーはグラハム長官への手紙で、こんな心情を吐露している。

「オーリック提督の後任、あるいは単なる交代者として極東に行くのは、非常に気が進まない」

 実はペリーは「地中海艦隊の指揮をとりたい」と希望を出していた。というのも、娘婿たちが冬はヨーロッパで過ごすことになっていた。「もし、地中海艦隊の司令官になれば、家族と一緒に時間を過ごせる」とペリーは考えたようだ。

 規律を重んじるペリーが、辞令を受けることに難色を示すのは、極めて珍しかったが、無理もない。なにしろ、このときペリーはすでに57歳である。

 自身のキャリアを充分に生かした仕事をしながら、かけがえのない家族との時間も大切にする――。

 ペリーは精力的に任務を遂行する一方で、海軍では「ファミリー・マン(家庭人)」と、からかわれるほど家族思いだった。残りの人生を考えれば、理想的なライフスタイルを実現させようとするのは、ごく自然のことだろう。

訪日の意欲が高まった背景に「3度の失敗」

 だが、その一方で、ペリーのなかで、押さえきれない衝動も湧き上がってきたようだ。

 というのも、日本を開国させるべく、アメリカはこれまでもアクションをとってきた。最初は1832年にエドモンド・ロバーツ提督が極東に派遣されたが、日本にたどり着く前にマカオで客死。

 1846年に派遣されたジェームズ・ビドル提督にいたっては、浦賀沖まで到着するも、日本側に親書も受理してもらえず、追い払われてしまっている。

 3度目の正直とばかりに日本に派遣されたのが、ペリーの前任オーリック提督である。しかし、前述したようにゴタゴタによって辞任。訪日には至らなかった。

 もはや、この難事業を成し遂げるのは、自分くらいしかないのではないか……。ペリーはそんなふうに考えたことだろう。手紙では「気が進まない」と書きながらも、こう続けている。

「しかし、東洋艦隊の規模と権限が大幅に拡張されて、その司令官になることが栄誉であるという確かな期待が持てるならば、異議を申し立てることはしない」

 実はペリーに打診があったのは1851年11月18日で、いったんは拒絶。その後の12月2日に、この手紙がしたためられている。いったん断ってから、よく吟味した結果、50代後半での新たなチャレンジも悪くはない、と思い直したのではないだろうか。

 その結果、ペリーの希望通りに、艦隊は5隻から12隻に増強することが決定。提督の権限についても、艦隊司令長官のみならず、特命全権大使の資格までが、ペリーに与えられることになった。

艦隊を大幅に縮小されたうえでの来日だった

「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」

 1853年7月、マシュー・ペリー提督率いる黒船が江戸の要所である浦賀湾に来航すると、江戸っ子たちが押し寄せて、こんな狂歌が歌われるほど大騒ぎとなった。

「上喜撰」(じょうきせん)とは高価な宇治茶のブランド名であり、四杯も飲んでしまうとカフェインで夜眠れなくなってしまうことと、「蒸気船」がたった四隻来ただけで眠れなくなってしまうほど慌てふためいている世の中をかけた狂歌である。

 ここで「おや」と思った人もいるかもしれない。ペリーの要望によって、艦隊は12隻に拡大されたはずが、当初の5隻よりも少ない4隻とはどういうことなのか。

 実は、ペリーはアメリカ政府に「予算上の理由」から、艦隊を縮小させられたのだ。

 ペリーの派遣を決めたフィルモア大統領から、民主党のフランクリン・ピアースに政権が移ったことも、逆風となった。ピアースは穏健派で、ペリーが行おうとしている「砲艦外交」には否定的だったからだ。

 プロジェクト自体が中止になる恐れもあるなか、ペリーは要望していた12隻のわずか3分の1の4隻で、日本へと渡らなければならなくなった。

 突然の黒船来航に民衆たちは「たつた四杯で夜も眠れず」と怯えたが、「たった四隻」で眠れないほど不安を抱えていたのは、むしろペリーのほうだった。

4隻でも日本人を怖がらせるには十分

 それでもアメリカから来た4隻は、乗組員が988人に及ぶ大部隊であり、日本人にとって十分すぎるインパクトをもたらした。

 重量はペリーを乗せた旗艦サスケハナ号が2450トン、蒸気軍艦ミシシッピ号が1692トン、ほかの帆走軍艦二隻がそれぞれ882トン、989トンである。

 当時の日本では、約100トンの船が「千石船」と呼ばれる大型船だったことを考えると、黒船のご一行がいかに脅威だったかが分かるだろう。

 ペリーは日本側から「久里浜で国書を受け取る」という回答を引き出し、その実現に成功。「回答を受け取るために再度来航する」と告げて、日本をいったんあとにしている。

冬の時期に出発してまで来航時期を早めたワケ

 再訪の時期については「来年の春に」としていた。だが、実際には1854年1月16日と時期を早めた。

 その理由について、ペリーは「1日も早く対日交渉を決定せしめるため」と述べている。ピアース政権による外交方針の変更が本格化し、ペリーにとって状況は刻一刻と悪くなっていたため、急ぎ日本との交渉をまとめようと考えたのである。

 ピアースは日本外交におけるペリーの権限を制限。蒸気艦の削減も命じたが、出航する直前ということもあり、ペリーはそれに応じなかった。持病のリウマチに苦しめられながら、厳しい冬の航海に身を投じて、再び日本へと向かった。

60歳で「日米和親条約」の締結を実現させた

 1854年3月31日、横浜で日米和親条約が締結。下田と函館が開かれることになった。その後は沖縄に向かい、琉米修好条約も締結している。

 本国からも半ばそっぽを向かれながら、60歳にして大役を成し遂げたペリー。香港に到着すると、ペリーは母国に「日本における任務が完了した」と告げて、自ら司令長官の解任を願い出たという。 日本史でのキーパーソンも、世界史としてとらえ直すと、また別の面が見えてきたりもする。

【参考文献】
M・C・ペリー著、F・L・ホークス編、宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記〈上〉〈下〉』(角川ソフィア文庫)
サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ著、洞富雄訳、西川武臣解説『ペリー日本遠征随行記』(講談社学術文庫)小島敦夫著『ペリー提督海洋人の肖像』(講談社現代新書)