全世界で700万人に読まれたロングセラーシリーズの『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からの世界史』(ワークマンパブリッシング著/千葉敏生訳)がダイヤモンド社から翻訳出版され、好評を博している。本村凌二氏(東京大学名誉教授)からも「人間が経験できるのはせいぜい100年ぐらい。でも、人類の文明史には5000年の経験がつまっている。わかりやすい世界史の学習は、読者の幸運である」と絶賛されている。その人気の理由は、カラフルで可愛いイラストで世界史の流れがつかめること。それに加えて、世界史のキーパーソンがきちんと押さえられていることも、大きな特徴となる。
数多くいる歴史人物のなかでも、ひと際、異彩を放つのが、大国・魏の基礎を築いた・曹操である。フィクションでは悪役とされやすい曹操だが、実は卓越したリーダシップを発揮していた。曹操の素顔と巧みな人心掌握術について解説する。(文:著述家 真山知幸)。
三国志の英雄
大国・魏の基礎を築いた曹操は、三国時代における屈指の英雄だといってよいだろう。
中国歴史小説史上で最大のベストセラー『三国志演義』の登場人物として、おなじみである。『三国志演義』では、曹操は主人公である蜀の劉備の敵役として描かれて、その非道ぶりが強調されてきた。
三国志の群雄が登場するのは「後漢」(西暦25~220年)という時代の末期にあたる。
後漢の前には「前漢」(紀元前202~後8年)の時代があり、両者の間に短い「新」の時代があるものの、大きくとらえれば、約400年も漢王朝の時代が続いた。そんな漢王朝が衰えていくなかで、曹操は台頭していき、魏王として、魏の基礎を築く。
220年に曹操が没したのちは、息子の曹丕(文帝)が後漢から皇位を奪い、皇帝として魏王朝(220~265年)を建国することとなる。
虐殺のイメージから悪役に
魏王として絶対的な権力を持った曹操は、自分に逆らう者は容赦なく殺した。
なかでも、曹操による「徐州大虐殺」(194年)は、彼を「恐怖の独裁者」と歴史的な評価を下すのに、十分なほど残虐なものだった。
虐殺を行った理由については「曹操の父である曹嵩(そうすう)が、徐州の長官だった陶謙に殺されたため、仇討ちを行った」とされている。だが、一方では、仇討ちを口実に領土拡大を狙ったとも言われており、真相は定かではない。徐州に兵を向けて、暴虐の限りを尽くした曹操。殺害された住民は数十万人にもおよび、死体で泗水の流れが止まるほどだったという。
そんな暴君ぶりを発揮しただけに、前述した『三国志演義』を筆頭に、曹操は悪役として表現されることが少なくない。
だが、3世紀に成立した『正史』とされるほうの『三国志』を紐解けば、曹操がただの暴君ではなく、卓越したリーダーでもあったことがよくわかる。
戦死者の遺族への思いやり
例えば、202年、曹操は民衆にこんな布告を出している。
「私は義兵を起し、天下のために暴乱を除去したが、故郷の人民はほとんど死滅してしまい、街中を一日歩き回っても顔見知りにすら出会わない、私は蒼然たる思いに胸をしめつけられる」
乱世の時代は、最下層の民衆の多くが将兵として戦地で戦い、その結果、戦死した者も多くいた。
曹操は残された家族に心を寄せながら、保護の対象にするべく、布告でこう続けている。
「私が義兵をあげて以来、死んで後継ぎのない将校の場合には、その親戚を探し出して後継ぎとせよ。田地を授け、官より耕牛を支給し、教師を置いてその者に教育を与えよ。後継ぎの存在している者のためには廟を立ててやり、その先人を供養せよ」