故郷に錦を飾った後
東京に留まる
「この人が尾﨑士郎なのか、と特別な関心を持ったのも無理ではありません。私はこの最初の出会ひから、尾﨑士郎に心をとられたかと思ひます」(『私の文学的回想記』より)
「脂粉の顔」で作家としての可能性を認められた千代は1922(大正11)年3月、それまでで最も長い120枚の中編小説「墓を発く」を中央公論社の滝田樗陰に送った。ところが滝田からは何の音沙汰もなかった。
何かの手違いで原稿が滝田に届いていないのではないか。そう思った千代は4月10日、上京を決意した。千代は夫の忠に2日で帰ると告げて札幌を発ち、中央公論社に直行した。
「原稿をお送りしたのですが、見ていただけたでしょうか」滝田は目の前に積まれた雑誌を無造作に投げ出し、「ここに出ていますよ」と言った。そして「原稿料も持って行きますか」と続け、会計係に現金を用意させた。
千代の「墓を発く」は『中央公論』5月号に確かに掲載されており、その報酬は366円という大金であった。
千代は上の空で街へ飛び出し、かつて足繁く通った小石川の質屋へ駆け込んだ。自分がどうやってこんな大金を手にしたか、誰かに自慢したかった。千代はそのまま岩国へ向かった。母や弟妹たちにも大金を見せてやりたかった。
4月13日の夕方、千代は岩国駅で待っていた5人の弟妹と人力車に乗り、錦帯橋を右に見て、臥龍橋を渡って川西に帰った。母に金を分け与え、翌朝、川下村の祖母を訪ねたが、忠の生家には立ち寄らなかった。
『生きて行く私』には、東京での乗り継ぎの合間に滝田に礼を言うつもりで中央公論社を訪れ、尾﨑士郎と出会ったとある。だが実際にはこの時期、尾﨑は上海に滞在中で、2人が出会うのはもう少し先のこと。だが、千代は札幌に戻らなかった。
「小説を書こうと決心した私は巣鴨の農家の離れを借り、もう一つ小説を書いてから札幌へ帰ろう」(『私の文学的回想記』より)と考えて東京に留まった。このことは同年5月15日付け『読売新聞』の「藤村千代夫人は上京中で巣鴨に寓居」というインタビュー記事で裏付けられる。
尾﨑士郎と出会い
初対面で心を奪われる
千代の2作目は『中央公論』8月号に掲載された135枚の力作「巷の雑音」であった。
「巣鴨の家にいる間に、私は何をしたでせうか。或るとき、中央公論社で一緒になった室伏高信に紹介されて、尾﨑士郎に会ひました」(『私の文学的回想記』より)
『宇野千代 その言葉と人生』(四條たか子 宝島社)
室伏高信は『時事新報』『朝日新聞』、雑誌『改造』などの記者経験がある評論家で、千代の「墓を発く」を激賞していた。尾﨑は室伏の『批評』を手伝ったことがあり、改造社から長編小説『逃避行 低迷期の人々』『懐疑者の群れ』などを刊行していた。
千代と尾﨑の出会いの経緯は、千代、尾﨑、室伏が三者三様に書き残していて真相は藪の中。
おそらく2人は1922(大正11)年の暮、室伏を介して出会い、尾﨑が滞在していた本郷・菊富士ホテルで飲み始めた。千代と尾﨑は初対面から惹かれ合い、意気投合して夜遅くまで話し込んだ。
「夜が更けたので尾﨑は、私のために、部屋をもうひとつ、用意させたのであったが、それは、2人の間に燃え上がった感情を抑制する役には立たなかった」(『生きて行く私』より)







