宇野千代宇野千代 Photo:SANKEI

1922年、宇野千代は夫に「2日で帰る」と告げて札幌から東京へ出かける。しかし、そのまま札幌へ戻ることはなかった。懸賞小説への入選をきっかけに作家としての道を歩み始めた千代に、東京で何が起きたのか。そして、その後の人生を左右する出会いとは。※本稿は、フリーライターの四條たか子『宇野千代 その言葉と人生』(宝島社)の一部を抜粋・編集したものです。

時事新報の懸賞小説で
1等に入選

宇野千代の言葉
「忘れもしない。あれは私の24歳のときの正月であった。時事新報を拡げて見ると、第一面の上段半頁に、懸賞小説のことが出ていたが、第1位が私と言うことになっていて、私の顔写真まで出ていた」(『生きて行く私』より)

『時事新報』(編集部注:1882年に思想家・教育者の福澤諭吉によって創刊された日本の日刊新聞)の懸賞小説の締め切りは1920(大正9)年12月20日。

 募集告知を見てから1カ月足らずしかなく、千代は『啓明』(編集部注:千代が北海道札幌市へ移住した際、現地で参加していた文芸同人誌)第2号に掲載する予定だった「脂粉の顔」を応募作とした。

 1等賞金は200円。審査方法は、まず全ての応募作品から、選者の里見弴と久米正雄が選んだ6作を年明けから全文掲載し、読者による入選順位当ての懸賞を募集する。その後、選者の採点と入選順位を公表するという手の込んだものだった。賞金が高額なこともあり、応募総数は3000編を越えたという。

 1921(大正10)年1月21日に当選者が発表された。1等は藤村千代の「脂粉の顔」で、僅差の2等は尾﨑泗作(のちの尾﨑士郎)の「獄中より」。金光左馬(のちの横光利一)の「踊見」(のち「父」と改題)が選外佳作となった。