「人にどう思われているかを、つい気にしてしまう」「失敗しないように、気を張ってばかりいて疲れてしまう」。自分を客観視することは大切ですが、人からどう見られているかばかり考えていると、心がすり減ってしまうことがあります。では、人の目が気になって疲れてしまう人は、何を手放せばいいのでしょうか? ウェルビーイング研究の第一人者である前野隆司氏は著書『幸せの人類史 なぜ「幸福」は人類を「不幸」にしたのか』の中で、道元の言葉をもとに、心が軽くなる生き方について語っています。(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

「人の目ばかりが気になって疲れる人」が手放すべきもの・ベスト1Photo: Adobe Stock

自分がどう見られているかが気になる

人の評価が気になって、言いたいことが言えない。
うまくやらなければと、いつも自分を追い込んでいる。
他人の幸せを、素直に喜べないことがある。

こんなことに心当たりはないだろうか。
前野隆司氏は、道元が『正法眼蔵』に記した言葉を、次のように今の言葉に置き換えて紹介している。

「仏道を習うということは、自己を習うのである。自己を習うというのは、自己を忘れるのである。自己を忘れるというのは、万法(あらゆる存在)に証せられるのである。万法に証せられるというのは、自己の身と心、そして他人の身と心がなくなってしまうのである。」
――『幸せの人類史 なぜ「幸福」は人類を「不幸」にしたのか』より

ベスト1は、「私」への執着

道元によれば、自己を忘れ去り、自分の身体も心も、他人の身体も心も、なくなってしまったかのように感じる状態が悟りだという。
前野氏は、この言葉をこう読み解く。

私もあなたもない。私への執着も、あなたへの執着もない。本来、ない。私が視野を広げ、利他的になって、世界の幸せを願うのではない。私が世界の一部なのではない。私が世界であり、世界が私である。私の幸せは自ずから世界の幸せであり、世界の幸せは自ずから私の幸せなのである。
――『幸せの人類史 なぜ「幸福」は人類を「不幸」にしたのか』より

「人の目ばかり気になって疲れる人」が手放すべきもの・ベスト1。
それは、「私」への執着だ。

自分がどう見られるか、自分が損をしないか。
私たちが疲れてしまうのは、いつも自分を中心に物事を考えているからなのかもしれない。
本書の中では、仏教と幸福学は似ていると述べている。
何かをしなければならないという執着から離れたとき、人は自ずから視野が広く、利他的になっていくのだという。

「自分」から自由になる時間を持つ

人の目が気になったら、相手が今どんな気持ちかを想像してみる。
誰かの成功を、自分のことのように喜んでみる。
目の前のことに、損得を考えずに没頭してみる。

そんなちょっとしたことが、自分へのこだわりから離れるきっかけになるかもしれない。

自分を大切にすることと、自分にとらわれることは違う。
「私」への執着を少し手放したとき、心は軽くなっていくはずだ。