産業競争力強化法に基づき設立された官民ファンド、株式会社産業革新機構は、オープンイノベーションにより次世代の国富を担う産業を創出すべく、産業界との幅広い連携を通した投資活動等を行っている。15年間の時限組織で投資活動を行う専務取締役の朝倉氏に、ご自身のこれまでのキャリアについてお話を伺った。

商社で携わった、シリコンバレーの原点

あさくら・はるやす
株式会社産業革新機構 専務取締役(COO)。1984年4月慶應義塾大学工学部卒業後、三菱商事株式会社入社。機械グループおよび情報産業グループにおいて営業、事業開発、事業投資従事。1994年6月ハーバード大学MBA修了。1999年5月エイパックス・パートナーズの日本進出に参画。2001年2月カーライル・グループのマネージングディレクターに就任。日本を対象とするバイアウト部門の投資責任者およびグロースキャピタル部門の日本代表を歴任。2009年7月株式会社産業革新機構 専務取締役(COO)就任。現在は投資活動全般を統括。

南 朝倉さんのキャリアについて教えてください。

朝倉 新卒で三菱商事に入社し、機械グループに配属されて3年間、その後情報産業グループに異動して10年間働きました。アメリカの軍事技術を転用して民間ビジネスを立ち上げる、いわゆるシリコンバレーのベンチャービジネスに携わる機会が多かったので、ベンチャーキャピタルの存在を比較的早く認識したと思います。彼らと接点を持つうちに、「ビジネススクールに留学してみたらどう?」と勧められるようになり2年間の留学も経験しましたね。1980年代のことです。

南 まだシリコンバレーが田舎町だったころですね。

朝倉 そうですね。アメリカは、米ソ冷戦を背景に拡大した軍事予算を1970年代に大幅に削減しました。それにより軍事の研究所で働いていたリサーチサイエンティストが大量に失業したのです。アメリカは国策として、軍事技術を民間に開放し、失業した人をシリコンバレーに移住させ、そこにベンチャーキャピタルが登場しました。HPやIBMでマネジメントを経験した人材を経営者に据え、意図的にベンチャー企業をつくり強烈なイノベーションを起こしたのがシリコンバレーの原点です。転用された技術は、半導体や通信、コンピューターグラフィックス、インターネットなど、今のITを支えている技術全てですね。シリコンバレーの原風景を見たのは貴重な経験でした。

南 面白いですね。そんななか、商社を離れて別のキャリアを選んだきっかけは何でしたか?

朝倉 留学中、投資銀行など金融の人たちの考えや動きが刺激的だったことに加えて、アメリカ社会は独立することにプラスの価値観を持っているので、大企業に所属していることがかっこ悪い、イケてない行為だと知ったからです。能力のある人は独り立ちをするということにカルチャーショックを受けて(笑)。大企業の一員として生きるのは重要な手段のひとつではあるけれど、大企業で働くことを目的にしないほうがいいだろうと感じたのです。