いま、金融の専門家たちに絶賛され、静かに話題になりつつある本がある。ゴールドマン・サックス、ドイツ証券などで長年トレーダーとして活躍してきた松村嘉浩氏による、『なぜ今、私たちは未来をこれほど不安に感じるのか?』だ。
マクロ経済理論、世界システム論から『進撃の巨人』などの漫画作品までを織り交ぜた分析で、我々が数千年に一度の歴史的転換点にいることを「小説形式」で明らかにする同書の前半部分を、【簡略版】として全5回連載で公開する。
(太字は書籍でオリジナルの解説が加えられたキーワードですが、本記事では割愛しております。)
大学の掲示板に結果が貼り出されたとき、絵玲奈は思わず「まいったなぁ……」とつぶやいた。
御影絵玲奈(みかげえれな)は、湊川大学経済学部に通う女子大生だ。
湊川大学経済学部は2年の後期から専門課程にはいる。卒業論文の指導をするゼミは3年から始まるので、2年生が終わるころに希望する専攻を選んで、志望ゼミに応募する。
人気のあるゼミは、たいがい決まっている。面接で教授には、「教授の研究分野に興味があって」とみんな言うかもしれないが、本当に勉強したい学生なんていない。実際には、教授がテレビに出るような有名人で、レジュメで自慢げに書けたり、ゼミ生を有名企業に送り込んでいて、その引っ張りがあるので就職に有利だったりという具合だ。
そういうゼミは当然だが定員を超える応募があるので、まず教授が書類選考をして、場合によっては面接を行なったりする。テレビに出てタレントのような活動をしている某教授は、ゼミのコンパでかわいい女子を回りにはべらせるので、面接はかわいい女の子に有利だといううわさがあったり、某教授は体育会しかとらないとか、別の某教授は成績重視で優がいくつ以上ないとダメなどと、さまざまな情報がキャンパスを駆け回る。なぜ、学生が真剣に情報収集するかといえば、1回目の選考で人気のあるゼミは埋まってしまうので、ここで落ちてしまうと人気のないゼミに行かざるをえなくなるからだ。
もっとも、絵玲奈の通う湊川大学経済学部は、ゼミを8単位として勘定するので、他に8単位をとれば、卒業はできる。なので、2年間をゼミに拘束されるよりも、海外に遊学したりして過ごすほうが有意義だと思う学生もたまにはいて、ゼミをとらない学生もいるが、マイナーな存在といえる。
絵玲奈は、最初の選考でかわいい女の子なら楽勝というウワサの、タレント系某教授のゼミに応募した。絵玲奈は、滅茶苦茶かわいいというわけではないが、まあまあ、自分では充分かわいいつもりだったからだ。
しかし、落ちた。かわいくないから落ちたのか、それとも教授の好みでなかったからなのか、教授に聞くわけにもいかないのでわからないけれど、それなりに自信があった分ショックだった。ルックスのせいじゃなくて成績が悪すぎたせいなのかもしれないと絵玲奈は変に自分を慰めた。
失意の絵玲奈だったが、仕方なく第2回の選考で、経済史の地味だけど勉強が楽勝だと評判のゼミに応募した。
ところが、なんとそこも落ちてしまったのだ。今度は確実に成績が悪すぎたせいだろう。
なぜなら、今度は書類選考しかなかったからだ。
掲示板に張り出された紙には、絵玲奈の名前はなかった。
とぼとぼと歩いて学舎から出ると、山の中腹に建てられた経済学部の学舎からは、眼下の港町の先に海が広がるという美しい景色が見えている。
春の晴れた日の眺めは格別で、そんなデートコースにでもなりそうな美しい眺めも、今の絵玲奈には空しいだけだった。
スマホを取り出しラインを開いて、中高から一緒の親友の沙織にチャットをした。
絵玲奈 ゼミ落ちちゃった
沙織 まじで。それってありえなくない?
絵玲奈 ありえないけど、ありえた
沙織 どうすんの? ゼミに入らない選択にするの?
絵玲奈
こうなったら、そういうことも考えないと仕方ないかなぁ。私って、かわいくないし、バカだし最悪……
沙織 そんなことないけど、もう少し勉強して成績とっておけばよかったね
大正時代に勃興した地元の新興財閥が寄贈した、歴史を感じさせる重厚な経済学部の学舎にある、学食の割にはちょっとおしゃれなカフェにたどり着いた絵玲奈は、いすに座り込んだ。
沙織 まだ定員割れのゼミってないの?
絵玲奈 ある
沙織 どこ?
絵玲奈 内村ゼミ
沙織 オーマイゴッド。合掌www
絵玲奈 あ、そんなふうに言って見捨てないでよ
沙織 それは、あんたには無理でしょ
絵玲奈
だよね。あ~、こうなったらいっそのこと休学して、海外に留学でもしちゃおうかな
沙織 たかがゼミなんだから、そこまで投げやりになる話じゃないでしょ
絵玲奈 たしかに
沙織 とりあえず、あさって合コンやるんだけど、気分直しにどう?
絵玲奈 へこんでるけど、参加する。かわいくないし、バカだけど大丈夫かな?
沙織 自虐ネタはいいからwww
「内村教授。数理経済学専攻。MITのPh.D.かぁ」
絵玲奈はつぶやいた。そして、内村教授のメガネをかけて、ボサボサ頭で、四十代後半のバブル経験世代のくせに、いつもダサい服装のオタクっぽい姿を思い浮かべた。
内村教授の担当する数理経済学の講義は、ご多分にもれず自分の書いた著作が教科書だが、大学生のレベルでは難しすぎる内容で、学生がついて来れるような内容ではなかった。とはいえ、講義は出席さえしていれば単位をくれるという楽勝講座でもあるので、とにかく単位が欲しいものにはそれなりに人気がある。しかしゼミに関しては、あえてオタクな教授と数理経済学を勉強したいなんて酔狂な学生は過去に存在せず、ずっとゼミ生がいない。となると就職活動で引っ張ってくれるゼミの先輩もいないわけなので、ますます人の足が遠ざかる状態だ。
そんなゼミに女の子が1人で、オタクな教授と差し向かいでゼミをやる、しかも意味不明な数理経済学。それが2年間。
「ありえない……そんな大学生活は……」と絵玲奈は身震いした。
◆ ◆
絵玲奈が教務課で手続きをしたのは、それから2日後の午後1時ごろのことだった。
「じゃあ、御影さんは、内村ゼミですね」事務の女性職員が、書類を確認し、登録をした。
その2日前、親友の沙織と合コン帰りに、最近流行りのカフェでお茶をしていた。
「でもさぁ、とりあえず内村ゼミに入っときゃいいじゃん」
「まじで言ってんの?」
「だって、嫌なら途中でやめればいいじゃない。もしかしたら、講義と同じで楽勝かもしんないし」
「他人事だと思って適当なこと言ってない? 女の子が、あんなオタク教授とサシで2年間も、わけのわかんない数理経済学なんてできるわけないじゃん」
「まあ、でもわかんないじゃん。こういうのをフリー・オプションっていうんだよ」
「なにフリー・オプションって?」
「失敗しても損しなくて、成功したときだけ儲けが出るってことよ。オプションっていうのは、おカネを払って買う金融商品の一種なんだけど、それがタダで買えるってこと。トレーダーやってる元彼に教えてもらった。だって、考えてみなよ、もしかしたら講義みたいに何もしなくていいかもしれないじゃない。ダメだったら止めちゃって他に8単位とればいいだけだしね。得する可能性がタダで手に入ってるわけだから、登録だけはしないと損だよ」
「そういわれれば、そうかもしれないけれど……考えてみる」
結局、沙織のいうフリー・オプションを行使することにしたが、来週から始まるゼミの初日のことを考えると、気が重い絵玲奈だった。
◆ ◆
ゼミの初日。絵玲奈は指定された教室に向かった。
「失礼します」
ドアを開けると、内村教授はもう来ていて、席に座っていた。
「こんにちは。内村です。御影さんですね。あ~、どこでもいいので適当に座ってください」
「はい」
「え~と、私の講座は取っているんでしたっけ?」
「ごめんなさい。取っていません」
そんなもの取ってるわけないじゃん、と内心思いながら絵玲奈は言った。
「じゃあ、どうしましょうか? さっそくですが、教科書を決めたいんですが、御影さんはどのくらい数学の知識があります? 偏微分ぐらいは、わかりますよね」
偏微分! やっぱり、ダメだ。そう思うと絵玲奈の頭の中で、何かが切れた。
「内村教授!」
絵玲奈は机をたたきながら勢いよく立ち上がって叫んだ。
「私は数学なんてまったくできません! 経済学もぜんぜんわかっていません。ごめんなさい。かわいくないし、バカなのでこのゼミしか入れなかっただけなんです! 教授に申し訳ないので、やっぱり、辞めさせてください」
と言って、絵玲奈は教室から出て行こうとした。
「ちょ、ちょっと待ってください。ちょっと落ち着いて話しましょう」
教授は、あわてた様子で、絵玲奈を止めようとした。
「いや、正直なところ、私のゼミは不人気で、あなたが史上初のゼミ生なんです」
そんなことはみんな知っていると絵玲奈は思った。
「ここで、あなたに逃げられちゃったらまたも記録更新で、かっこうが悪くて、私は本当に立場がなくなってしまいます。お願いなので、考え直してもらえないですか?」
教授の懇願発言という予想外な展開に絵玲奈は考えた。これって沙織が言ったとおりかも。どうせ何も失わないんだから、言うだけ言ってみようか。
「わかりました。でも、本当に私は数学とか無理なんで、本当にそれでも大丈夫ですか?」
「わかりました。大丈夫です。数学なしの簡単な内容にします」
何でも言うことを聞きそうな勢いの教授を見て、この際だから言いたいことを全部言ってやろうと絵玲奈は調子に乗って思った。
「あと、数理経済学とかって就職活動でぜんぜん役に立たないじゃないですか。それどころか女の子の履歴書に専攻が数理経済学とか書いてあると、面接官が引いちゃって逆にマイナス印象になっちゃうかもしれないと思うんですよ。それだったら、いっそのこと海外に留学したかったからゼミに入らなかったと言ったほうが女の子っぽくていいんじゃないかと思ったりするんですよね」
「な、なるほど……」
絵玲奈の恫喝に、素直に教授はうなずいた。
「なので、ゼミに残るかわりになにか、就職の面接で気の利いたことが言えて、この子ってわかってるよなって思わせられるような、実際に役に立つことも教えてもらえないですか? 数理経済学専攻のイメージで受けたダメージを回復するような」
ダメ元作戦で、ずいぶんとずうずうしいことを絵玲奈は言ってみた。
「むずかしい注文ですね……」
教授はまじめにしばらく考え込んだ。
「わかりました。この際なので、とりあえず数理経済学は一切やめましょう。そのかわり、これからの未来のお話をしましょう。世の中を神様が見るように上から大きく見て、世界で何が起きていて、今後どうなっていくのか。こうしたことを、ものすごくわかりやすく勉強していくのはどうですか。見識が広がって、新聞やニュースの意味がわかれば、就職活動の面接でも気の利いたことが言えるようになると思いますが……」
ダメ元作戦、大成功。なんだかわからないけど、数理経済学は回避できたわけだし。でも、とりあえず、さらにダメ押しをしておこう。と絵玲奈は思った。
「あの~、それって、本当に知的な女の子に思われますか? 賢そうな女の子に見られますか?」
「もちろんですよ。絶対に大丈夫。きっと役に立ちます!」
教授は胸を張って言った。
本当かなぁ、と思ったけれど、教授が必死にセールス・トークするのを見て、このへんでまぁいいか、と絵玲奈は思った。
「わかりました。じゃあ、よろしくお願いします」
「でも、他の人には絶対に内緒ですよ。ホントは数理経済学を教えないといけないので。お願いしますね」
と教授は、念を押すように言って、急にちょっといたずらっぽい表情になった。
「じゃあ、さっそくですが、今日はこのへんにして、次回までに『進撃の巨人』を読んできてください」
「え、もしかしてマンガの『進撃の巨人』ですか?」
数理経済学者が、なぜ漫画? 絵玲奈は、あまりのギャップに、思わず本当にマンガなのか確認した。
「そうですよ、マンガの『進撃の巨人』です。これを読むところから始めましょう」
予想もしなかった展開に絵玲奈は、しばらく茫然とした。