「老害反対」の僕が老害かもしれない
齢80を過ぎて「社長と経営者は違う」とつくづく思う。「社長」「経営者」と同じ存在を言っているようだが、内実はまったく別物で、社長であることをよしとする人と、経営者になろうとする人は明らかに違う。経営者とは、やはり社長のもう一つ上なのではないかと思うのだ。
だいたいが、「社長」になると舞い上がってしまい、偉くなった気分になる。でもそれは、社長に任命されれば社長で、結果が思わしくなければ取締役会や株主総会、陰の実力者などから「お前は終わり」と言われれば、それまでの存在だ。「プロ経営者」とマスコミに持て囃される人でも本質的には雇われ社長に過ぎず、経営者にはなれていない事例が多い。
「じゃあ、鈴木さんの考える経営者とはどんな人なんですか」と聞かれたら、こうだ、というものは明確にない。
だが同時に、生き残っていこうという執念はまったく違うと思っている。例えば業績悪化の責任をとって解任されておさらばできるのであれば、それはそれでケジメのよろしいことだが、そうはいかないことがあるのだ。
僕自身のことで言えば、僕は本当は40歳までに巨億の財をなして大きなヨットを買い、地中海を乗り回すのが夢だった。ヨットにはスキーや自転車など遊び道具一式を載せ、美女もたくさん乗せて毎晩大騒ぎする。
しかし初めの一歩から違っていた。死ぬほど働いて気がついたら今になっていて、もう辞められなくなっている。潰れかかった会社を再建できたし、ヒット商品も生み出せた。
だからこそ「一抜けた」と言おうものなら「逃げるのか、この野郎」と言われる。一方、ワイフからは「あんたいつまでやる気なの」と責められる。言う通りなのだ。僕だってついこの前までは「老害反対」だった。しかし自分が老害にならぬよう会社にいる。
同族経営から脱皮すると公言してきた。にもかかわらず同族経営に戻ったりする。自分のやっていることはすべて逆さまになった。
これはいったいどうしたことかと思う。
結果責任だけを負える社長は、ある意味で幸せな存在だ。「私の能力不足で結果を出せず、申し訳なかったです」で済むのだから。だが中小や中堅の企業ではそうはいかない。結果責任以上の責任を背負い、しかも逃げることができないからだ。つまり社長ではなく経営者にならなければ株主や従業員、あまたのステークホルダーへの責任を果たせない。
老害と言われようと、舅の小言と言われようと、責任を背負い続け、決して逃げないという経営者としての覚悟を示さなければ、中堅企業は従業員からも世の中からも受け入れてもらえないのだ。