アーサー・ロックは「ベンチャーキャピタル」という言葉を世の中に定着させた功労者だ。ベンチャーキャピタルという存在がなければ、おそらく、ニューエコノミーも情報革命も生まれなかったかもしれない。そしてロックの存在がなければ、ベンチャーキャピタル業界という存在もなかったかもしれない。
ロックはアメリカの西海岸で業務を開始したベンチャーキャピタリスト(VC)の第1号だ。
ウィリアム・ショックレーの研究室から飛び出した8人の研究者に力を貸していたロックは、同じ時期に、その後コンピュータ革命に点火する起爆剤の役割を演じた融資団を組織している。そして、いくつかの投資ファンドを使って、インテルやアップルなど後のシリコンバレーにおける巨大企業のいくつかに融資を行った。ロックが援助したのは資金だけではなく、役員として貴重な助言も与えている。70歳代になる現在でも、この業界で蓄積した豊富な経験を活かせる仕事を続けている。
生い立ち
アーサー・ロックは1926年に、菓子店経営者の息子としてアメリカで生まれた。1951年、ハーバードビジネススクールのMBAを修了すると、ニューヨークの投資銀行、ヘイドンストーンに就職する。当時、ベンチャーキャピタル業界は世の中に認知された存在ではなかった。そうした機能を担う企業はあっても、例えばロックフェラーが経営していたような同族経営的組織であるのが普通だった。
ロックに幸運が訪れたのは、ヘイドンストーンにユージーン・クライナーから手紙が届いたときだ。クライナーは、カリフォルニア州にあるウィリアム・ショックレーの研究所で働く科学者だった。トランジスタ研究の第一人者であったショックレーは聡明な反面、気まぐれな科学者でもあった。人事管理は存在しないも同然、しかも偏執病の一歩手前で、研究所はきわめて雰囲気が悪かった。革命さえ起こりかねない状態だった。
研究員たちは、ショックレーとはこれ以上一緒に研究できないという気持ちを固めていた。クライナーは、研究所を辞める前にヘイドンストーンに事情を説明した手紙を書き、仲間が一緒に仕事を続けられるところがないか、たずねたというわけだ。ロックは西海岸に飛び、クライナーやその仲間と会った。
成功への階段
クライナーたちはシリコンを材料にしたトランジスタ製造の可能性を探りたいという。もしうまくいけばコンピュータ業界に革命が起こるだろう。ロックはこの若い科学者に心を動かされ、新しい企業の設立に必要な150万ドルの資金調達に手を貸すことに同意した。それからロックは膨大な数の投資家に話を持ちかけたが、ほとんどの相手はあきれ顔を返した。幸い、土壇場でシャーマン・フェアチャイルドの存在を思い出す。