創業直後に訪れた倒産の危機

 ところが昭和24年(1949年)の冬はことのほか冷え込みがきつく、ブラパットがぱったり売れなくなってしまった。

 初めて扱う商品だけに、体型を補正する下着は、厚着をする冬には無用になるということに気づかなかったのだ。夏の間は洋装する女性も見られたが、冬になると防寒性に優れた和服を着る人がまだ圧倒的だった。

 独占契約を結んでいたので、ブラパットは次から次へと送り込まれ、在庫はたまる。和江商事は零細企業だけに、現金収入が途絶えると、とたんに資金繰りが厳しくなる。

 とりあえず社員全員にこう告げた。

「年末賞与は払えない。1月の給料も支払は延期や」

 それでも中村や川口以下、社員たちは幸一についてきてくれた。

 明けて昭和25年(1950年)、この年の正月は文字通り餅がのどを通らなかった。1月に入っても売り上げは下がる一方。

 年越しの資金作りのためにとはじめたベビー服の販売も、当初は順調かに思えたが、2月になると次々と返品されてきた。委託販売の形をとっていたので、一旦販売店に商品はわたっていたが、実際には売れていなかったのだ。

 ますます在庫を増やすはめになった。

 不幸は続けてやってくる。経営難のところに取引先が倒産して売掛金が回収できなくなるなど泣きっ面に蜂だ。昭和25年2月の決算は当然赤字。株式会社化してわずか4ヵ月後で経営危機に直面したのである。

 服部たち住み込みの若い社員にはやめてもらわざるを得ないと思ったが、彼らの寝顔をみていると言い出せない。

 一時は会社を解散することも考えたが、あの白骨街道を生き延びてきた自分には亡くなった52人の戦友の分まで生きる責任がある。

 のたうちまわるような苦しみの中で、ある考えがひらめいた。社員に夢を語ることによって今の逆境を乗り越える力を出させようというのである。

 (今世紀の終わりまでに、あと50年ある。何か物事をはじめる時に、50年間の計画を立て、それをやりきる人間がいるだろうか。おそらくいないはずだ。おれはその実現に人生を賭けてみよう!)

 それこそ塚本幸一が信念を貫く言行一致の男であることを示す伝説として、後世語り継がれることになる「50年計画」だった。

(つづく)

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