料理写真はイメージです Photo:PIXTA

 スーパーには長蛇の列がならび、食料棚はスカスカ……。そんな光景を目の当たりにし、「食べるものがなくなってしまうのでは」と不安にかられている人も多いだろう。じつは、かつて大正時代にも物価が高騰し、庶民が米を安々と買えない時代があった。食料が手に入りにくい状況としては、現代と重なるところがある。

 そんな中、「簡易生活」という独自の手法で乗り切った男が現れた。簡易生活とは、明治・大正に流行した簡素かつ合理性をとことん重視する生活法である。現代でも参考になる彼の驚くべきスゴワザを、明治娯楽物語研究家の山下泰平さんに、自著『簡易生活のすすめ』から紹介してもらおう。

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京城日報に掲載されていた広告1940年5月16日の京城日報に掲載されていた広告。他人の能力を開花させ、科学的に考えるのが簡易生活の特徴だ。その考え方は長く継承され、戦時中の新聞にも「必要にして十分な量を使えば大丈夫」という趣旨の広告が掲載されていた"  拡大画像表示

 簡易生活を追求し、究極にまで向上させた結果、おかしな場所にたどり着き、代用食で日本を救おうとした男がいた。

 まずは時代背景を解説しておこう。大正七年、第一次大戦等の影響で物価が高騰し、庶民は生活難に陥っていた。七月二十二日に富山県で米騒動が起きると、それに呼応するように米の安売り要請運動が、全国各地で繰り広げられた。

 そんな中、一人の男が静かに立ち上がる。その名も赤津政愛、漢学を修めた記者で簡易生活の実行者である。赤津政愛が出した解決法は単純で、米以外の主食を食べればいいというものだ。実行するためのガイドブックとして『一日十銭生活:実験告白』(磯部甲陽堂、大正七年)を出している。十銭は現代では三百円程度で、簡易食堂でも一食十二銭なのだから、一日十銭というのがいかに安価なのかが理解できるだろう。

 赤津は米騒動以前から、自身の人格を向上させようと簡易生活に没頭し、代用食の研究に勤しんでいた。その目的は、簡易な代用食を探し出し、日々食べることで人格を向上させることである。なぜ代用食を食べると人格が向上するのかは謎でしかないが、とにかく赤津はそう思ったのである。

 赤津は本気であった。簡易生活を実現するために、簡素で安く健康を害さない食材を探すべく向かったのは貧乏な家庭であった。米など買えないくらいの生活をしている人々から、米なしで生きていける方法を学ぼうとしたのである。この発想からも分かるように、赤津政愛という男はかなりの変人だった。