1998年に経営破綻した日本長期信用銀行。エリート集団として高い評価を受けていた行員たちは、社会から糾弾され、辛酸をなめることとなった。経営破綻から18年、2000年に新生銀行として再出発してから16年。苦悩の日々を潜り抜け、自ら人生を切り開いた長銀OBの激動の十数年に迫る。(取材・文/ 経済ジャーナリスト 宮内 健)

ずっと「新しい産業」に携わってきた28年

日立コンサルティング社長・八尋俊英さん

 大学4年生の夏、国家公務員試験一種に合格した八尋俊英さんは官庁訪問で通商産業省(現経済産業省)を訪れた。今でも印象に残っている面接官は当時まだ日本になかったシネコンを導入しようとしていた課長補佐で、作業をしている机の横に座らされ、資料を見せながら「これってどう思う?」と問いかけてきた。面接というよりディスカッションの雰囲気で、気がつくと1時間が経過していた。

「別に役所へ行きたかったわけではなく、新しいもの好きだったので、新しい産業や事業が生まれてくるところに携わりたい。そのためには日本から世界へ出ていく、あるいは世界にあって日本にはないものをつくるような仕事にたどり着けたらいいなという漠然とした夢を持っていました。それは要するにイノベーションだと後になって気づくのですが、そのときはイノベーションという言葉も知らなかったし、今ほど流行っていなかったですね」

 現在、社長を務める日立コンサルティングのオフィスで、八尋さんは28年前を振り返った。

 しかし官僚への道を選ばず、1989年に八尋さんは長銀へ入行した。民間への道を選んだのはシネコンをつくれるようにする仕事以上に優先度の高い業務が通産省には多かったこと。加えて、八尋さんは統合が議論されていたEUについて大学で勉強していたが、当時は日米通商摩擦の時代で「EUにアンテナを張っていても仕方ない」という通産省の雰囲気を感じ取ったことによる。

「長銀はそういう感じではなく、たとえば最先端の航空機ファイナンスを手がけている会社がアイルランドにあって、そこに出向している人がいたりしました。私の持つグローバルのイメージはヨーロッパを含んでいたので、『あ、こっちかな』と」

 以降、現在に至るまでのキャリアは他に類を見ないものだ。長銀に8年務め、ソニーへ転職して新規事業を立ち上げ子会社COOとして活躍した後、2005年に経産省へ社会人中途採用第一期生として入省。ここでは「情報大航海プロジェクト」を企画したことで知られている。2010年に再び民間へ戻りシャープでクラウド活用新サービスを推進し、2013年に日立コンサルティングへ入社した。社長に就任したのはその翌年である。

 一見するとあまり脈略がない経歴のようにも見えるが、一貫しているのは新しい何かを生み出そうとする姿勢であり、イノベーションとの関わりである。

長銀の新設「マルチメディア室」に
トヨタへ次代のサービスを提案

 長銀で八尋さんが最初に配属されたのは本店営業第四部船舶金融班だった。内示を受けて「もっと新しいことをしたかったのに」とショックを受けていた八尋さんに、先輩は「船はものすごく面白いんだぞ」となだめた。実際、船舶はプロジェクトファイナンスを学ぶ上で格好の題材だった。

「船には鉄や石油、穀物など何かを積載しますよね。それらの価格変動は一つの船の採算に大きな影響を及ぼします。そうした要素や、たとえば船が新日鉄の鉄鋼を運ぶために建造されるのならその製鉄所を見学し実際にどれだけの稼働率になるかを計算したり、将来の船の需要予測や最終的にスクラップにしたときの価格まで含めてキャッシュフローを考え、プロジェクトが成立するかを徹底的に検証するんです。これがもっと大きな産業だと係数が増えて大変ですが、一隻の船がどうなるかを考えればいいだけなので、プロジェクトファイナンスの入口として船舶は格好の題材でした」