知の巨人ドラッカーが亡くなったのは、11年前の11月11日だった。あらためて氏の功績を振り返るとともに、なぜ、いまなお経営者やビジネスパーソンの熱い支持を得ているのかを考えてみたい。

 20世紀の知の巨人と称されたピーター・F・ドラッカー教授が逝去されたのは2005年。11年前の11月11日だった。96歳の誕生日を1週間後に控えてのことである。

「マネジメント」「ベンチマーキング」「目標管理」「分権化」「コア・コンピタンス」など、いまビジネスの世界で当たり前とされているコンセプトは、ドラッカーが生み出し、発展させたものである。知識社会の到来、民営化、非営利組織の重要性、さらには近年ますます緊張感を増すテロの脅威についてもいち早く喝破していた。その著作は、アンソロジーなども合わせれば、生涯で50冊は下らない。しかも、60代、70代、80代、90代と、ますます精力的に執筆活動を行っていたのだった。

 本人は「自分は予言者ではない」と否定するが、なぜ10年20年も前に、起こりうる社会の動静を見通すことができたのか。なぜ、90代にいたるまで、それほどのエネルギーを持ち得たのか。世界がドラッカーの虜になったのは、提唱された概念、手法だけによるものではないだろう。底流に流れる、人間そして社会への深い洞察があったからこそである。

 ドラッカーは1909年にオーストリアの首都ウィーンに生まれた。父アドルフはオーストリア=ハンガリー帝国の高級官僚であり、母も医学を専攻したオーストリア初の女性である。そんなドラッカー家のサロンには、当代きっての著名人が集まっていた。「創造的破壊」で有名な経済学者ヨーゼフ・シュンペーター、精神科医のジークムント・フロイト、作家のトーマス・マン……そこでの機知にとんだ会話は、幼少期のドラッカー少年をおおいに刺激したことだろう。なんともそうそうたる交友関係である。

 その後、ナチスの台頭によりドラッカーはイギリスに渡り、そこでドリス夫人と運命的な再会を果たし、新天地アメリカに居を移す(渡米してからの交友関係も目をみはるものがある)。

 こうして二度にわたる世界大戦に人生を大きく左右されたが、そこから問題提起をなすのがドラッカーである。これら衝突の根源にあったものは何か。経経済至上主義ははたして社会を機能させるのか、人を幸せにするのか。初の著作『「経済人」の終わり』(1939年)から怒涛の執筆活動が始まった。

 ゼネラル・モーターズ(GM)からの依頼を受けて経営と組織をつぶさに調べ、著した『企業とは何か』(1946年)以降は、経営者やビジネスパーソンもおなじみのビジネス関連書籍が多数執筆されている(ちなみに同書は発刊当初、GMで禁書扱いとなった)。『マネジメント(上・中・下)』の大作は経営者のバイブルであり、『経営者の条件』は最も読まれたセルフマネジメントの書である。

 人の幸せを念頭に置いたとき、社会はどうあるべきか。その社会を機能させるために、組織が必要であり、組織を価値ある手段とするために、個人の成長が必要である。そうしてドラッカーは、「自己啓発の父」としてセルフマネジメントを提唱し、「マネジメントの父」として組織やチームの動かし方を解き、「現代社会最高の哲人」として社会の変化を予見した。

 もうひとつ面白いのは、ドラッカーの言葉は、名言・金言として短く切り取っても十分に役立つことだ。著作を読んだ人であれば、その一言が引き金となって大きな学びが脳裏によみがえるし、読んだことのない人でも、その意味は十分に伝わる。

 ドラッカーのメッセージは、その立脚点からして本質的なものであり、それゆえに我々の悩みにいまなお寄り添っている。そして、それぞれの関心に沿う入口がある。だからこそ、21世紀にあっても、学生、新入社員から、チームリーダー、マネジメント層、そして経営を担うトップリーダーまで、誰もが読んで「学び」を得ることができるのだろう。