経済の現場で活躍する人に向けて『ビジネスで使える経済予測入門』を上梓した中原圭介氏が、ドラッカーを日本に初めて紹介した野田一夫・日本総合研究所名誉会長に、生きた経済を見る眼の養い方を聞く。
なぜ経済学は、現実の経済からズレてしまったのか
野田 中原君は1970年生まれで、僕が1927年生まれだから、40歳以上の年齢差がある。1970年代と言えば、まさに“オイル危機”の時期だったね……。そして、先進国の中でオイル危機に最も適切に対処できたことで、日本の国際的評価が一段と高まり、70年代末には日本は、米国・ドイツと共に「世界経済をリードする3台の機関車の1つ」と言われるほどになったが、それが結果的には、“プラザ合意”につながった。
プラザ合意では、日本とドイツがドル切り下げのための積極的経済政策で米国を助けたが、このことが結果的には、“バブル経済”の根因をつくることになった。経済大国になった日本が国際的な役割を果たしながら、国内経済をバブル化させてしまったという時代を少年として生きた中原君は、その頃、日本が何かおかしくなってきたと感じたかな?
中原 バブルの時代、私はまだ中学生から高校生でした。部活動や勉学に励む毎日だったので、そんなことはまったく感じませんでした。大学に入って間もなくバブルが弾けましたが、私にとっての転機は、尊敬する先輩が金融機関に就職することが決まって、先輩から経済や金融の話をいろいろ聞くようになったことです。そのことがきっかけで、経済への関心が急速に深まっていきました。その結果、社会人になってサラリーマンとして為替のマーケットで働くようになったわけです。
野田 サラリーマンになってから“生きた経済”を見ていると、経済学者が新聞や雑誌に偉そうに言っていることに、何か違和感を抱いたくらいのことはあったでしょう?
中原 バブル崩壊後の日本経済をそれまでの経済学で説明しようとしても、誰もうまく説明できないことに、何よりも大きな違和感を抱きました。マクロ経済学の処方箋がまったく通用しなかったのを見るにつけ、それまでの常識がもはや常識ではなくなったのだと思うようになったのです。そのときから、経済の構造そのものが時代によって変化を遂げていくのだろうと考え、経済学も時代に適応して変わっていかなければならないのではないかと強く思ったわけです。ところが、経済学の世界の人々はそういう努力をしようとしなかったし、論理的に説明しようとする気概も持っていなかったですね。