東京出張所開設

 下着ショーの成功に続いて、すかさず幸一は二の矢を射る。東京への本格的な進出を開始したのだ。

 そのためには、これまでのような日帰りの“東京飛脚”ではなく拠点が必要だ。

 昭和27年(1952年)1月、中央区日本橋久松町の栄会館という建物に東京出張所を開設した。“栄会館”と名前は立派でも、埋め立て地にある〈バラックに近い貸し事務所の一室(約二坪強)〉(『知己』)であった。

 驚くほど貧弱な出張所だったのには会社の存続に関わる深い理由があったのだが、それについては後に詳しく触れる。

 出張所長を任せたのは藪中謙二。かつてイラワジ会戦で、幸一の所属する隊の大隊長だった人物である。

 イラワジ会戦は、あの悲惨を極めたビルマでの敗走の途中、敵に一矢報いてやろうと挑んだ戦いだ。内堀大隊長戦死のあとを受けて、歩兵第60連隊第2大隊の指揮を執ったのが、当時中尉であった薮中だった。

 その藪中は、東京出張所を開所する前年の11月、畑中保男という青年を連れ、就職させてくれないかと幸一を訪ねてきたのである。

 藪中は塚本より1歳下だが、陸軍士官学校を出ている。昔は東京帝大よりも陸士や海士が上だと言われた時代だ。エリートと言っていい。

 言葉の端々に元上級将校のプライドが見え隠れし、商売人になれるとは到底思えなかったが、死線を共に越えたかつての上官からの申し出をむげには出来ない。それに畑中のほうは商売経験があり期待できそうだったこともあり、彼ら2人をペアにして東京出張所を任せることにしたのだ。

 経営者は時として情を捨て冷徹であらねばならない。そんなことなど幸一は百も承知だったろうが、戦争経験は彼の中では例外だった。

 このころも毎晩のように戦場の夢を見た。あまりに眠りが浅いことから、彼は生涯、睡眠薬を手放すことが出来なかったという。

 だがやはり、彼は後に、情に流されたことのしっぺ返しを受けることになるのである。