破綻を経てよみがえった吉野家のDNAには、創業者と、管財人として会社更生をリードした弁護士の2人の経営手腕が色濃く受け継がれている。安部修仁・吉野家ホールディングス会長が師と仰ぐ2人の凄みについて語る。(構成/フリージャーナリスト・室谷明津子)

典型的な創業者だった
オヤジ流の人材教育

 私には、心の底から師と仰ぐ人物が2人います。1人は吉野家の実質的な創業者であり、私たちが愛情をこめて“オヤジ”と呼んでいた松田瑞穂。そしてもう1人は、1980年に吉野家が倒産したとき、管財人として会社更生をリードしてくださった弁護士の増岡章三先生。2人は性格も仕事に対するスタンスも正反対ですが、それぞれの分野で“超一流”でした。私が経営者として決断したことや、取ってきた行動の底流には、2人の教えがあります。

安部修仁・吉野家ホールディングス会長が師と仰ぐ2人は正反対とも言えるタイプだが、それぞれ吉野家に吉野家のDNAに色濃い影響を今も残している

 オヤジは典型的な創業社長タイプで、思いついたアイデアはすぐに着手して仕組み化し、結果を出すのが面白くてならない人でした。

 頭にはいつも仕事のことがあって、よく「寝る前に次の日のことを考えていると、朝が来るのが待ち遠しい」と言っていました。

 そんなトップですから、下に就く人間にはレスポンスの速さ、前のめりになって仕事に取り組む情熱を求めます。まず指示を出して、忠実に素早く行動するかを見る。ここで気に入ったら、さらに裁量を持たせ、出来栄えを見守る。細かく指示するのは最初だけで、途中からは自主性に任せて、どこまでできるかをじっと見ていました。

 部下の能力を試す場として最も機能していたのが、地区本部長のポジションです。ある地域に出店するとき、地区本部長には物件探しから契約、現地での人材の採用・育成、原料の仕入れ、あらゆることが任される。その地域の実質的な経営者のような立場です。

 当時の地区本部長の多くが20代で、店長、スーパーバイザーを経て見込まれた人間が送り込まれていました。私もその通りのキャリアを積み、27歳で九州の地区本部長になりました。今思うと、オヤジは若い人間を教育するために、かなり思い切って裁量を与えていましたね。