倒産や主力商品である牛丼の販売停止――。吉野家の安部修仁会長は何度か危機的状況に遭遇した経験を持っている。絶体絶命と思えるような状況を、どう乗り切ったのだろうか。(構成/フリージャーナリスト・室谷明津子)
海外から戻ると
会社が倒産寸前だった
倒産、そして主力商品の販売停止――。1つの会社で、大きな経営危機にここまで見舞われた人間は少ないかもしれません。吉野家と共に歩んできた道は、まさに「逆境の連続」でした。
私は福岡の高校を卒業後、プロのミュージシャンを目指して上京し、1971年にアルバイトとして吉野家で働き始めました。創業者の“オヤジ”(故・松田瑞穂氏)が、築地1店で年商1億円を稼ぐ「驚異的な牛丼屋」をチェーン化し、さらに大きく成長させようとしていた時期で、会社は活気に満ちていました。
オヤジは類まれなる能力をもつ創業者でした。中でも、チェーン化に際して人づくり・組織づくりを率先し、教育への投資を惜しまなかった点は、後の吉野家の大きな財産となっていきます。
私も入社直後から、「米国流のチェーンストアとは何か」を理解するための特別なセミナーを随分受講させてもらいました。働きぶりのいいアルバイトは社員に登用し、年齢に関係なくどんどん仕事を任せ、報酬も上げていく。ハードワークながら、やる気のある人間にはたまらない職場でしたし、私はまんまとその術中にはまったタイプです(笑)。
吉野家の社員になってから、20代で九州地区本部長のキャリアを経て米国に語学留学。破竹の勢いで伸びていた会社が、帰国するころには経営不振に陥っているなんて思ってもみませんでした。ちょうど私が米国にいるとき、吉野家の急速な店舗拡大によって原材料である牛肉の需給バランスが崩れ、不足した分は乾燥肉を使うようになっていました。低コスト化のために素材をさまざまに合理化したのも、味を劣化させる原因となりました。
結果、お客さまが離れて売り上げが減り、一方で無理な拡大による新店の赤字増加で、資金繰りが急速に悪化してしまったのです。