刎頸の交わり
昭和27年(1952年)、幸一にとって忘れられない出来事があった。彼の人生にとってこれ以上ない財産となった、茶道裏千家の若宗匠千宗興(後に宗室を襲名し、現在は玄室)との出会いである。
それはこの年の秋、千が約2年間の渡米とハワイ大学での修学を終え、帰国して間もなくのことであった。
仲介の労を執ってくれたのは昭和産業の松本という人だ。
「塚本幸一という男が、どうしても千さんに会いたいと言ってるんやけど、会うてやってくれへんやろか」
話を聞くと女性の下着を扱っている会社の社長だという。普通なら少し警戒してもいいところだが、千も若く、何でも吸収してやろうという年代だったこともあって、
「わかりました。会いましょう」
とふたつ返事で快諾した。
(いやあ、何や、お互い似てるなあ……)
というのが、幸一と会ったときの千の第一印象だったという。
そしてふたりはたちまち兄弟のような関係となった。
筆者がインタビューした際、千が“刎頸の交わり”という表現を使ったのが印象に残った。中国の戦国時代の趙を支えた重臣・藺相如と勇将・廉頗の友情物語からきた言葉で、互いに首を刎ねられても後悔しない関係という意味だ。それは決して大げさなものではなかったのだ。
千もまた、戦後を“生かされた”と思っている者のひとりだった
ここで幸一の生涯の友であり、彼の葬儀では葬儀委員長にもなった裏千家15代前家元・鵬雲斎千玄室について、少し詳しく触れておきたい。
千は幸一より3歳年下である。本名は千政興。裏千家14代家元・淡々斎の長男として生まれ、将来の後継者として厳格に育てられた。代々大徳寺で禅の修行をするのもこの家の伝統である。
そうは言っても生身の人間、幼い頃はそこらの子供同様いたずらもした。
そんな時、小学校の先生は、
「お前は日本で一番礼儀正しい家のこどもやないんか」
と言って説教したという。