絶妙のタイミングで始まった上場計画
昭和36年(1961年)頃から、戦後創業して労働争議や不況を乗り越えてきた会社が、次々と株式市場への上場を果たしていた。
昭和36年というのは前年につけた日経平均の最高値1356円をさらに上回る1829円をつけた年で、昭和33年(1958年)から続く岩戸景気に湧いていた時期にあたる。
幸一も証券会社から盛んに株式の上場を勧められはじめていた。創業当初、ままごと遊びのように株主総会の真似をして内田に笑われていたが、本当に上場できるところまで来ていたのだ。
株を公開する以上、いかに条件が良くて一時的に大きな金額の資金を株式市場から調達できるとしても、会社経営に万全の自信が持てないうちは上場すべきではない。当時はまだ労働組合との決着がついておらず、それが幸一にとっては心配の種だった。
だが昭和37年(1962年)10月に相互信頼の経営を打ち出して以来、状況は一変する。不安が消え、経営に強い自信が持てるようになった。
これまで社員には賞与の一部を社内預金か持株会か選択できるようにして支給していた。するとほとんどの社員が持株を選択。ワコールの将来性に自信を持ってくれていることが伝わってきた。彼らに報いるためにも、株式上場はいずれ果たさねばならない課題であった。
決断の直接のきっかけとなったのは四太郎会である。メンバーの一人である河野卓男が経営する河与商事は洋傘やショールの老舗であったが、昭和38年(1963年)には社名をムーンバット株式会社と変更し、翌年に上場するべく準備を進めていた。
切磋琢磨してきた仲間が上場するという話には大いに刺激された。
それにワコールの業容は急速に拡大している。銀行借り入れだと返済や借り換えの心配をしなければならないが、株式上場をすれば返済不要な安定的な資金調達ができるし、増資も比較的容易だ。何より社会的信用が得られるから、採用面でも有利になる。
そうしたことを考えた上で、幸一も上場に踏み切る。