はじめての雑誌広告
どんな世界でも上を目指していこうとすると、かならずそこにはライバルが立ちはだかる。それが世の常というものだ。
新規参入をしようと小売店を回ってみて、門前払いされる時にはきまって同じ社名を聞かされた。
「わたしのところは青山さんと取引させていただいているんで結構です」
京都に青山商店という強敵が存在していたのである。古くから同様の商品を扱っていたこの世界の老舗である。
(同じような商品仕入れてたんでは、青山はんには永遠に勝てんな)
だからといって、新しい仕入れ先にあてがあるわけではない。
そこで幸一が考えたのは奇想天外な一手だった。
『月刊仕入案内』という、戦前から大阪で発行されている業界誌に広告を出したのだ。
仕入先求む
当方二十六歳の復員軍人、財無けれど精励恪勤期待を裏切らず
京都市二条通東洞院東入
和江商事
塚本幸一
この広告を出したのは昭和22年(1947年)2月ごろのことであった。
“財無けれど”とは思わず笑ってしまう。そんな会社と誰が取引しようと思うだろう。正直かもしれないが、正直すぎる。彼の人柄が表れた広告と言えるだろう。
掲載料の2000円は幸一の1ヵ月の生活費に相当する。彼にとっては乾坤一擲の大勝負だった。
意外なことに反応があった。1ヵ月ほどしたある日、山梨県の山間の村で水晶加工業を営んでいる依田喜直という人物から手紙が届いたのだ。
広告を見た依田は、
(世の中にはおもしろい男があるものだ。端的に自分の信念を言い放っている。よし、おれが信用してみよう)
と思ったのだという(『ワコールうらばなし』所収、依田喜直「塚本社長と私の奇しき出会いと追憶」より)。
こちらも相当の変わり者だ。
当時、依田は47歳。代々村長を務める裕福な家だったが、戦後の農地改革でほとんどの田畑を失っていた。だがそこはさすが甲州商人の伝統を持つ山梨県人。窮余の策として敗戦で放出されたブラジル水晶を10トン買い、水晶の加工業・有限会社依田製作所を立ち上げたのだ。
依田からの手紙は、水晶メーカーである依田製作所の経歴と自社製品の優秀性、安さを熱く説くものであった。加えて具体的な製品内容や単価などが10枚あまりの便箋に細かい字でびっしりと書かれている。
幸一はその内容に感動し、一面識もない彼に、何とすぐさま手持ちの金すべてを送るのである。仕入れの代金を前払いしたわけだ。しめて3000円。