──その封印を解いたきっかけは何だったのですか。

 これまでは企業や経営者を題材にして小説を書いてきたけれど、そろそろ自分自身のことを書いてほしい――。2年ほど前に息子家族と食事をしているとき、息子がそんな意味のことを言い出したんです。親父のからだを労わるつもりの発言だったのかもしれません。なにしろ僕は、78歳を過ぎたいまも現場で取材を重ねながら企業ものや経営者ものを書いている。そして今後もそれを続けるつもりでいる(笑)。

 ただ、息子と話しながら思ったのは、それまで考えてもみなかったけれど、そうか自分のことを書けばいいのか、ということでした。だとしたら、施設に預けられていた1年半のことを書くしかないなと。

書くと決めたら当時の思い出が
次から次に湧き出てくる

──高杉作品の醍醐味は、モデルとなる経営者や企業を徹底的に取材して裏を取り、そのうえでフィクションとしての物語に昇華させていくそのプロセスにあると考えますが、この異色作はどのような方法で執筆されたのですか。

 たよりにできたのは、自分の記憶だけです。日記も写真も何も残っていませんでした。でも、書くと決めたら当時の思い出が次から次に湧き出てくる。懐かしい人たちの名前もフルネームで鮮明に浮かび上がってきました。多感な年ごろだったし、普通だったら経験することのない1年半の施設体験はとても切なくてつらいものだったから、僕のからだの奥底に染み付いていたのでしょうね。

 それらの記憶の断片を大学ノートに書き留めていきました。思い出しながら涙を流すこともあったし、気が付いたら施設でうたっていた讃美歌や唱歌を口ずさみながらメモを取っていることもありました。

──主人公の少年の名前は杉田亮平。高杉さんの本名と一字違いですね。小説では母親が2カ月ぶりにめぐみ園を訪ねてくる。母はしかし、「駅に人を待たせてるから」という理由で、30分ほどで退散してしまいます。3歳の妹は声を張り上げて追いすがりますが、母の耳に届きません。泣きじゃくりながら地べたにしゃがみ込んでしまった妹を抱き上げ、亮平が諭します。「お母ちゃん、きょうは忙しいらしい。またすぐ来てくれるからな」。

 エピソードの数々はほとんど実話です。小説の中でも書きましたが、母が帰った日の夜は狭い寝床で何度も寝返りを打ち、しくしく泣きました。まだ小6だったから母が恋しくて仕方ない。肩を震わせてむせび泣きました。母はその後、若い男性を連れてもう一度施設にやって来たのですが、以降、二度と顔を見せませんでした。