究極の味を求めて
吉祥寺「小ざさ」の稲垣篤子氏は、世界最強のビジネス、吉祥寺「小ざさ」を牽引してきた人とも思えないほど柔和な方である。
こういう言い方が許されるとすれば、実にチャーミングな女性である。
愛読書は『あしながおじさん』であり、実は父の天才起業家・伊神照男氏から吉祥寺「小ざさ」を任せられるまでは、プロのカメラマンでもあった。
土門拳氏と肩を並べて、写真を撮っていた時代もあった。
あるいは、吉祥寺「小ざさ」の「クリエイティビティ」は、そんな稲垣氏のアーティストの部分が大きく影響しているのかもしれない。
話によると、伊神氏も生前、文芸をこよなく愛したと言う。
たしかに、今の「小ざさ」のビジネスの基盤は、父伊神照男氏が創った。
しかし、たいていの起業家がそうであるように、伊神氏は圧倒的な行動力と「0から1」を生み出すことを得意とする一方で、自らが創った出したものを守るという適性は、そう高くはなかったのかもしれない。
味を守り、さらに「小ざさ」を発展させたのは、実子の稲垣篤子氏だった。
父とともに味を極めようとした稲垣氏は、ある境地に達することになる。
或る時から、風が見えはじめた。
或る時から、澄んだ炭の、炎の力強さをつかんだ。
或る時から、小豆の、紫の一瞬の輝きの声が聞こえてきた。
はたして、紫に輝くとは、どういうことなのか?
小豆の声が聞こえてくるとは、いったい、どういうことなのか?
稲垣氏はこう表現する。
「羊羹をつくり続けていると、感動的な喜びを味わえる瞬間があります。
炭火にかけた銅鍋で羊羹を練っているときに、ほんの一瞬、餡が紫色に輝くのです。
透明感のある、それはそれは美しい輝きで、小豆の声のようにも感じられます」(稲垣篤子著『1坪の奇跡』より)
究極の味を追い求める先に、稲垣氏が見出したのは、小豆を「焦げる寸前で焦がさない」ということだった。ヘラを銅鍋の中で動かすときに、「半紙一枚分の厚さ」を残す。この微細な感覚が、「幻の羊羹」を生み出すのだという。