日本史のおもしろさは、ずばり「人」にあります。
何か「すごい」ことを成しとげた人は、歴史に名前が残ります。でも「すごい」だけの人なんて、この世にひとりもいません。むしろ、ものすごい失敗をしたり、へんな行動をしたりして、まわりから「やばい」と思われているような人が、誰にもできない偉業をやってのけていることもあります。だって、人生は長いのです。いい日も悪い日もあるし、年とともに変化だってあります。いろんなことを考え、行動し、ときに失敗し、そこから学び、たまに成功する。カッコいい一面もあれば、ダサい弱点もある。
だからこそ、人はおもしろいのです!
「すごい」と「やばい」の二面から、日本史の人物の魅力に迫る『東大教授がおしえる やばい日本史』から、今回特別に内容を一部公開してお届けします。

すごい竹中半兵衛 豊臣秀吉を大出世させた天才軍師

 戦国時代に天才軍師として豊臣秀吉を連勝に導き、大出世させた竹中半兵衛。軍師とは戦の作戦を司る、武将チームの頭脳担当です。半兵衛は、体は弱いが頭がよく、「女性のようにきれいな顔だった」ともいわれています。

天才軍師・竹中半兵衛の「やばすぎるこだわり」とは?

 もともと美濃(岐阜)の守護大名・斎藤龍興の家臣だった半兵衛は、見事な戦略で織田信長軍に勝利するなど、若いころから実績がありました。

 しかし龍興がかわいがるのは、ごますりじょうずの無能な家臣ばかり。それにキレた半兵衛は、16人の部下を引きつれて龍興の稲葉山城を攻め、たった1日で城を乗っ取ります。

 でも、龍興をたっぷりガクブルさせて満足したのか、半兵衛はあっさり半年で城を返却。その後、浅井家に転職したものの1年でやめて山奥にこもり、ニートになってしまいます。実績をあげても報われない、ブラック企業的な武将生活にうんざりし、「働いたら負けだ」と思ってしまったのかもしれません。

 そんな半兵衛のうわさを聞いて家臣にほしくなった信長は、秀吉にスカウトを命じます。最初は居留守を使っていた半兵衛ですが、秀吉の情熱的なアタックに心動かされ、ついに「秀吉さまにならお仕えしましょう」とOKしたそうです。アツくなりがちな秀吉と、つねに冷静な半兵衛は、まさに最強のコンビでした。

 1579年、半兵衛は肺の病気で倒れますが「武士の死に場所は戦場です」と戦にもどり、36才の若さで亡くなりました。