「スケート靴を取り上げる」と言うおやじに対して「試験会場に行っても答案用紙は白紙で出す」と言い返し、その後2ヵ月間お互いに口をきかなかった。

 ただ、最終的には許してもらえた。おやじががんだと分かり、医者から「余命半年」と宣告されたのは大学1年生の5月のこと。当時は、患者本人には告知せずに隠すのが当たり前の時代だったから、おやじは自分の病名を知らずに逝ってしまった。

 進学のことで喧嘩していた頃にはすでに病気が進行し、息子を説得するエネルギーがなかったのかもしれない。

 甲南大学に進学した私は、まさにスケートざんまいの学生生活を送り、国体への連続出場を果たした。人の話は聞かず、自分で決めて、決めたことはとことんやる性格は、おやじ譲りだと思っている。

亡父の遺志を継ぎ
メーカーとしての「初代」社長になる

 大学1年生の秋、おやじが亡くなった。命日はなんと、私の誕生日と同じ9月19日だった。

「ものすごい執念で、その日に死んでみせたのではないか」――。

 とても因縁めいたものを感じ、1962年3月に大学を卒業してすぐに小林製薬に入社した。

「おまえは俺の生まれ変わりとして跡を継げ」と、言われているような気がしたからだ。

 本当は、花王かライオン、あるいは武田薬品工業か三共(現在の第一三共)など、他社に入って5年ぐらいは勉強したいと思っていた。

 しかし当時は、病死したおやじに代わり、専業主婦だった母が社長に就任しており、「早く入社して仕事を覚えてほしい」「できるだけ早く社長のバトンを渡したい」と急かされていたので、5年も6年も他人の釜の飯を食う余裕はなかった。