皆さんは「エピクテトス」という哲学者をご存じだろうか? 日本ではあまり知られていないが、「ストイック」(禁欲的)という生き方を打ち出した源泉のひとつであり、キリスト教、仏教、無神論など、様々な立場の違いを超えて、古今東西、多くの偉人たちにも影響を与えた古代ローマ時代の哲学者である。欧米では、古くから彼の言葉が日常の指針とされ、近年ではさらに注目を集めている。そのエピクテトスの残した言葉をもとに、彼の思想を分かりやすく読み解いた新刊『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』(荻野弘之・かおり&ゆかり著、ダイヤモンド社)が9月12日に刊行となった。エピクテトスとは、果たして何者なのか? 本書の著者である、上智大学哲学科の荻野弘之教授に解説してもらった。
哲学史上でも珍しい「奴隷」出身の哲学者
上智大学文学部哲学科教授
1957年東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業、同大学院博士課程中退。東京大学教養学部助手、東京女子大学助教授を経て99年より現職。2016年放送大学客員教授。西洋古代哲学、教父哲学専攻。著書に、『哲学の原風景――古代ギリシアの知恵とことば』『哲学の饗宴――ソクラテス・プラトン・アリストテレス』(NHK出版)、『西洋哲学の起源』(放送大学教育振興会)、『マルクス・アウレリウス『自省録』』(岩波書店)、『奴隷の哲学者エピクテトス 人生の授業』(ダイヤモンド社)などがある。
エピクテトスは、ローマ時代のストア派を代表する哲学者である。彼が生きた時代は、紀元1世紀の後半から2世紀の前半にかけて、ネロ帝からハドリアヌス帝に至る帝政初期、ローマ帝国が最大の版図に達し、空前の繁栄を誇った時代にあたる。
同時代のストア哲学といえば、キケロ、セネカ、マルクス・アウレリウスといった名前が浮かんでくるが、こうした系譜の中核にいるのが、エピクテトスという奴隷出身の哲学者なのである。
彼は紀元50~60年頃に、奴隷の両親から生まれた苦労人で、彼自身も若い頃は奴隷として過ごし、解放された後は私塾を開いて生計を立てた。解放奴隷出身の哲学者とは、哲学史上でも珍しい。
エピクテトスの一生は、いわゆる「学者」でも、ましてや「エリート」でもない。奴隷としての出自、慢性的な肢体不自由、国外追放の辛酸、塾講師としての不安定な収入、といった多くの困難を抱えながら、当時の流行思想でもあったストア派の哲学を自分自身の「生き方」として学び取り、それを洗練させていった。
地位や財産や権力とは無縁な、ごく平凡な市井の庶民が、いかにして真の自由を享受し、幸福な生活にあずかることができるのか。そのためにいかなる知恵が大切なのか――。「隷属と自由」という彼自身の課題は、そのまま現代人の生活の場面にまでつながっている。
「記憶しておくがよい。君は演劇の俳優である」
ここで、エピクテトスの残した言葉を見てみよう。
作家が君に物乞いの役を演じてもらいたければ、そんな端役でさえも君はごく自然に演じるように。足が悪い人でも、殿様でも、庶民でも同じこと。君の仕事は、与えられた役を立派に演じることだ。その役を誰に割り振るかは、また別の人の仕事である。
エピクテトスは、ずばり「君は演劇の俳優である」と言う。しかし、「誰もが主役」というわけにはいかない。自分に与えられた役回りが、たとえ端役や悪役であったとしても喜んで受け入れ、監督や演出家の創作意図を正しく理解し、そのつどその役に相応しく見事に演じ切ることが大切だ、と彼は伝えている。
他人を押しのけてでも自分から主役を願い出ることも、割り振られた役に不満を持つことも、正しくない。自分の置かれた状況をよくわきまえたうえで、自分に振られた役は何なのか、何を自分は望まれているのかを見抜くことが求められる。エピクテトス自身、足を悪くしていたが、彼にとっては自分の肢体不自由すら、演じるべき役柄として理解していた。それは消極的な態度とも、驚くべき前向きな態度とも取れる。
我々は、なりたいものになれるわけではない。生まれた場所、遺伝も含めた親からの影響、育った環境や文化など、様々な条件がかけあわされて今の自分がある。舞台背景を無視して身勝手に演技する役者がいれば、大根役者のそしりを免れないだろう。同様に、自分の境遇を無視して生きようとすれば、そこには必ず無理や歪みが生じる。
むろん、役者とて一挙手一投足すべての動きが台本に記されているわけではない。人生=舞台という一定の制約の中で、自分の手で変えることのできるものは何か、またその反対に受け入れなければならないものは何か。その境界を正しく見極めることが、本当の意味で自分らしく生き抜くということなのかもしれない。