哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第5章のダイジェスト版を公開します。
本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。
物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?
大人と子どもの「境界」とは?
前回記事『哲学的に考えると、子どもに「自由」はない。』の続きです。
「子どもが危険なことをしないように行動を制限する、それ自体は賛成だけど……、でも、それって何歳まで?」
「え?」
ミユウさんは、先生ではなく僕の顔を見て問いかけた。いや、そんなこと言われても……と思ったが、けどまあ、妥当なのは成人になる20歳までとか? それとも18歳か?
いや、年齢で固定するのではなく、学業が終わって社会に出た瞬間までとかもあるかもしれない。
「まあ、何歳でもいいんだけどさ。とにかく、何かの基準で、大人と子どもの境目をはっきり決めないとダメよね」
「どうしてだね?」
先生は訊いた。
「え、だって、大人と子どもの境目を曖昧にしてたら、『おまえはまだ未熟だ』の決まり文句でいくらでも、他人の行動を制限できるじゃない。おまえは無知だ、無能だ、だからおまえには自由な選択はできない、だからおまえの行動を制限する……とかなんとか。それがアリになっちゃったら、どんなに大人になっても、そのひと言で自由が奪われるわけで、それって、ぜんぜん自由を保証できてないと思うのよね」
ふむ、と言って、先生は思案する素振りをした。
「たしかに、その通りだ。そして、実際、自由主義もそう考えている。大人と子どもの境目がどこなのか、それ自体は自由主義者の中でも意見が分かれるところではあるが、いずれにせよ、ひとたび大人であると規定された人間については、無条件に自由を認めるべきだという点については一致している」
「それでたとえ本人が不幸になろうともだ。なぜなら、それを認めないとしたら―つまり、ある条件以上の人間を大人だと認定しないとしたら―いま彼女が言った通り、なんやかんやの理屈をつけて、人間の行動をいくらでも好き放題に制限できてしまうことになる」
「でも」
と倫理は口を挟んだ。