加害側が面白半分に行なう一方的で長期的な暴力は、「やっても大丈夫」「やらないと自分がいじめらるかもしれない」という状況では増幅するが、「暴力を振るったら処罰される(自分が大きな損害を被る)」という状況では行なわれないと内藤氏は説く。

 同じ滋賀県では、昨年、排泄物を持たされたり、全裸を撮影されたりするなどのいじめを受けた男子中学生の両親が警察署に被害届を提出し、14~15歳の同級生3人が逮捕された。学校や教育委員会の隠蔽体質を指摘する報道が続けば、今後も保護者が「聖域」を飛び越えて直接司法に訴えを起こす事例が増えるのではないか。

見抜けないのは教師の怠慢だけか?
「いじめ」対策は想像以上に困難

 前段では、教職員の「良識」に基づく学校の「聖域化」が存在することについて触れたが、今回多くの報道から読み取れるように、学校・教育委員会の隠蔽体質は、もちろん、管理責任を問われることに対する保身によるものもある。なぜ保身に走るのかと言えば、「学校でいじめは起こってはいけないもの」という前提があるからだ。

 学校でいじめは起こってはいけないもの。学級内でいじめが起こった場合は担任に責任がある。いじめを見抜けないのは教師の怠慢であり、教師が生徒1人1人と向き合っていないことが原因――。

 これが世論であり、教育現場の「常識」だ。起こってはいけないものだからこそ、実際にいじめが起こったときに隠蔽される。いじめを見抜けなかった教師はおらず、そもそもいじめが「なかった」ことにされる。

 しかし、それではどんな教育現場であればいじめが起こらないのか。いじめが見抜けないのは、本当に教師の怠慢なのか。

 今回の問題では、生徒がアンケートで「(教師らが)いじめを見て見ぬふりをしていた」と回答していたことが報道されている。実際に教職員らがいじめを黙殺していたとしたら、それは糾弾されるべきである。