日中間に国交が樹立されてから、40年が過ぎた。1972年の国交正常化は、現代日中関係の原点となるものであった。当時を振り返り、今日への示唆を探ってみたい。
周恩来の対日方針
1972年7月7日、田中角栄内閣が成立した。自民党総裁選で日中国交正常化を唱えていた田中は、盟友の大平正芳を外相に据えた。大平は、かつて池田勇人内閣でも外相を務めており、田中とともに中国との国交樹立に意欲を示していた。
中国側の意向は、その1年前から次第に判明していた。佐藤栄作内閣期の1971年6月28日、周恩来総理が竹入義勝公明党委員長と会談したのである。
周は竹入と会談した際、「公明党の意見」を自ら5点に要約し、「この5点が実現すれば、日本政府と中華人民共和国との国交を回復することができ、戦争状態を終らせることができる」と述べた。
5点とは第1に、「1つの中国」という原則のもと、中華人民共和国政府が唯一の政府と認める、第2に、台湾は中国の1つの省であることを認め、台湾の帰属未定論という誤った見解に反対する、第3に、日本が蒋介石と結んだ日華平和条約は不法であり破棄する、第4に、台湾のアメリカ軍は撤退する、第5に、中国が常任理事国として国連に加入する、というものだった。
中国が国交樹立の条件を明示するのはまれであった(外務省アジア局中国課「日中国交回復5原則に関する周恩来の発言について」1971年7月1日、「日中国交正常化(重要資料)」2011-719、外務省外交史料館所蔵)。