インターネットの「知の巨人」、読書猿さん。その圧倒的な知識、教養、ユニークな語り口はネットで評判となり、多くのファンを獲得。新刊の『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』には東京大学教授の柳川範之氏が「著者の知識が圧倒的」、独立研究者の山口周氏も「この本、とても面白いです」と推薦文を寄せるなど、早くも話題になっています。
この連載では、本書の内容を元にしながら「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に著者が回答します。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら
(こちらは2020年11月の記事を再掲載したものです)
[質問]
学校で古文や漢文を教えるのは無意味ですか?今の時代、もっと教えるべきこと(例えばプログラミング教育など)があると思われますか?
漢文が読めないと、現実的な弊害があります
[読書猿の解答]
公の教育の意義を認知的ワクチンと考えると、学校で何かを教えなくてもいいという主張は、もうそんな伝染病なんてないのだからワクチンを打つ必要はないというのと似ています。
認知的ワクチンというのは、害あるデマや考えをウイルスになぞらえて、知識や考え方(だから認知的といってます)を教え学ぶことでその流行を防いでいる、という意味です。
すると問題は古文や漢文を教えることが認知的ワクチンだとしたらどのような認知的ワクチンであるか、つまりそれを学び知ることでどんなデマや害ある考えが防げるのかということです。我々の日本の歴史や文化についての知識は、多くの部分を近代以前に書かれた文献資料に基づいています。さらに、漢文が分からないと明治期の知識人が書いた文章(漢文訓読体)をちゃんと理解できないので、近代の文献も読めません。
たとえば福沢諭吉『文明論之概略』で「盗賊殺人は人間の一大悪事なれど」というフレーズの「人間」は「にんげん」ではなく、漢文でいう「じんかん」=「俗世間、世の中」という意味です。「にんげん」と解釈しても一見意味が通ってしまうので誤解しやすい。こういう落とし穴が結構あります。
漢文訓読体は、漢文に戻して理解するとわかりやすい。洋学派の福沢ですらこうなのです。明治期の知識人が書いた文章が漢文訓読体なのは、彼らを育てた私塾や、藩を超えたネットワークをつくった会読(読書会)という集まりが、漢文を読むことを軸にしていたからです。日本近代をつくった彼らの思考のベースが漢文にあった訳です。
古文や漢文を学ぶことを止めて直接生じるのは、近代以前に書かれた文献資料を読むことができる人が減ることでしょう。この事により、日本の歴史や文化についてのデマや害ある考え(たとえば捏造マナー本や、キモチイイ系の歴史本など)の流行が拡大するかもしれません。
高校までの古文や漢文の授業だけで、いきなり近代以前の文献が読める訳ではありませんが、これは英語や数学やプログラミングも同じです。実用化するには自分で更に積み上げることが必要ですが、認知的ワクチンのポイントは多くの人が広く接種することにあります。さらに知識のエコシステムもまた生態系ピラミッドのアナロジーで考えることができるなら、古文や漢文を読める人が減れば、スキルの高い人たちのレベルも下がると予想すべきかもしれません。