ダイナミック・ケイパビリティは
日本の製造業のお家芸だった?
橘 : ダイナミック・ケイパビリティには、どのような可能性がありますか?
菊澤研宗 氏Kenshu Kikuzawa 慶應義塾大学商学部卒業、同大学大学院博士課程修了後、防衛大学校教授・中央大学教授などを経て、2006年に慶應義塾大学教授。この過程で、ニューヨーク大学スターン経営大学院、カリフォルニア大学バークレー校客員研究員を務める。著書に『成功する日本企業には「共通の本質」がある―「ダイナミック・ケイパビリティ」の経営学』(朝日新聞出版、2019年)などがある。
菊澤 : 現代はまさに変化が常態化している、いわゆるVUCAの時代です。こうした時代を生き抜くうえで必要な能力がダイナミック・ケイパビリティです。日本語に訳すと「変革能力」、それも環境の変化に適応する「自己変革能力」のことです。ここで大事なのは、これはゼロから新しいものをつくる能力ではないということ。ダイナミック・ケイパビリティは、既存の資産を再構築、再配置、再利用して変化に対応していく能力だという点に注目してください。
そう考えると日本の製造業には、世界でも最高水準のものづくりのノウハウがあるのはご存じの通りです。暗黙知の継承などで培われた無数の知恵や技術が日本企業には蓄積されています。つまり、日本企業がダイナミック・ケイパビリティを発揮しようとすれば、すでにそのための資産は十分あるのです。後は、具体的にそれらを使ってどのように自己変革を実践するか、だけなのです。
その実践にとって非常に有効なデジタル技術として「デジタルツイン」(サイバー空間上の双子)によるサイバーフィジカルシステム(CPS)が注目に値します。これは、たとえば製造現場のデータに基づいてサイバー空間上で最適な製造プロセスがデジタルツインとして描き出され、それをもとに実際の製造現場が最適に修正され、再び製造現場の情報と外部からの情報を加味してデジタルツインが最適化されるという、サイバー空間と物理的世界を相互作用させて進化するシステムのことです。これによって変種変量生産が可能になります。アメリカのゼネラル・エレクトリックが最初に使用した技術であり、現在、この分野ではドイツのシーメンスが最も進んでいます。このCPSに、日本の製造業がこれまで蓄積してきた暗黙知やノウハウを取り込むことができれば、日本独自の優れた製造システムになると思います。
現在のものづくりは、市場の小さな変動や売れ筋の微妙な変化をすぐに察知して、素早く自己変革を行うことが要求されています。製造業がこのスピードに対応するのに、昔ながらの物理的な世界で人間が「素材を研究して試作品をつくってテストして……」というのでは間に合いません。そこでDXを取り入れる必要があるのです。その具体的な方法が、このデジタルツインに基づくCPSであり、この方法は日本の製造業と矛盾しない。むしろ新しい日本のものづくりの方法として有効だというのが私の考えです。実際に、富士通テレコムネットワークスでは、すでに現実の工場を仮想工場(デジタルツイン)として再現し、市場の変化に敏感に対応して変種変量生産を可能にしています。また、自動車メーカーのマツダでも、デジタル技術によるモデルベースの開発が展開され、サイバー空間と現実の相互作用を通して開発製造する方法を実践しています。
デジタルテクノロジー ビジネスユニット DXIセクター長
橘 知志 氏Satoshi Tachibana 製造業におけるデジタル技術やデータを活用したDX領域における新規事業開発、新ビジネス・新サービス企画、プラットフォーム構築やグローバルIoTプロジェクト支援等を多数実施。これまでさまざまな業種・業界の企業を対象に、戦略、新規事業、業務改革、システム構築、IT運用に関するコンサルティングを多数経験。また、アビームコンサルティングのデジタル領域を立ち上げ時から主導。
橘 : デジタルツインのように、製造業の側からITに踏み込んでいくアプローチは非常にいいですね。日本の企業がDXに取り組む場合、どうしてもシリコンバレーなどのアメリカ型手法を見てしまいます。でもあれはゼロから何かをつくるアプローチで、偶然や運に左右される面も多い。その点、日本にはこれまでの「ものづくり日本」の優れた蓄積があるのですから、既存の資産を用いてITの世界に乗り込んでいくデジタルツインは、まさに正攻法だと感じます。
とはいえ、実際に企業の中で変革を進めようとすると、必ず内部から抵抗勢力が出てきます。日本の製造業がダイナミック・ケイパビリティを実践する場合、どう進めていったらよいでしょうか。
菊澤 : ダイナミック・ケイパビリティの概念を提唱したデイビッド J.ティース氏(カリフォルニア大学バークレー校ハース経営大学院教授)は、企業が保有する基本的能力として、「オーディナリー・ケイパビリティ」と「ダイナミック・ケイパビリティ」の2つを区別します。前者は内向きの能力であり、コストを削減する能力です。後者は外向きの能力であり、環境の変化によって自社と外部の環境との間の乖離を埋めるために、既存の資産を再構築・再配置して新事業の展開やパラダイムシフトを行う能力です。より正確に言えば、環境の変化を感知し(感知力)、そこに利益を得る機会を捕捉し(捕捉力)、機会を実現するために既存の資産を再構築・再配置・再利用する能力(変革力)のことです。企業の持続的成長は、これら2つの能力の相互作用によって実現されていくのです。
しかし、このような自己変革はそれほど簡単ではありません。おっしゃるように、必ず反対勢力が出現するからです。それゆえティース氏は、彼らを説得するために、自己変革つまり既存の資産の再構築によって、より大きな価値を生み出す必要があると主張します。彼によると、個々の資産は特殊であるが、それらを結合すると、個々の資産の単なる総和よりも大きな価値を生み出すことがあり、これを「共特化の経済性」といいます。つまり、「1+1=2」ではなく「1+1=2+α」であり、この「+α」が単なる個の総和以上の新たな全体的な付加価値として、反対勢力に対する説得力となるのです。
橘 : 日本の製造業の現場が得意としてきた「カイゼン」などは、「オーディナリー・ケイパビリティ」によるものですね。しかし一方で、トヨタやホンダのような著名な企業の経営者たちが実践してきたのは、本質的には「ダイナミック・ケイパビリティ」だったのかなと、伺っていて感じました。我が国の製造業の成長期には、それぞれの企業が暗黙知を持って切磋琢磨しながら新しいものをつくり出していたことを思うと、ダイナミック・ケイパビリティは、むしろ日本のお家芸だったとも考えられますね。