感動小説『精神科医Tomyが教える 心の荷物の手放し方』では、「期待」「不安」「選択」「好意」「悪意」「女王」「迷い」「決意」という8つの物語を通じて、多くの人が抱えがちな不安や悩みの解決法を説く。この自身初の小説の刊行を記念し、小説を書くに至った経緯や物語に込めた思い、作品に出てくる珠玉の言葉の一部などをお届けする。

【初の執筆で珠玉の小説】ゲイの精神科医が小説を書いたワケイラスト:カツヤマケイコ

運動が苦手で休み時間は図書館にこもる

アテクシが子どもの頃、ちょうど任天堂のファミリーコンピュータ(ファミコン)が出はじめて、友だちとの話題についていくため、ゲームが欲しいと思ったことがあります。

でも、父の教育方針で、ゲームは絶対にNGでした。

その代わり、本だけは好きなだけ買ってもらえました。

漫画は基本的にダメ。許されるのは「学研まんが」のような教育系だけでした。

小説もイヤらしい内容、残酷な内容は禁止だったので、一緒に書店に行った際、パラパラとチェックされましたが、そこで父のOKが出れば2冊でも3冊でも欲しい本を買ってもらえました。

誕生日とか特別なイベントがなくても、書店に行けば必ず本を買ってもらえました。

だから、みんながゲームをしているとき、アテクシは本を読みながら育ったのです。

なかでも「学研○○のひみつ」みたいなシリーズ本は、欄外に1行だけ書いてある豆知識まで、すべて暗記するくらいに読み込んでいました。

その頃から、「本屋さんは幸せな場所であり、読書は楽しいもの」という意識が定着したのだと思います。

アテクシは運動が不得意だったので、学校の休み時間もサッカーなどには交わらず、図書室にこもってずっと本を読んでいるタイプでした。

本を読むだけでなくストーリーテリング(自作の物語を語ること)も好きで、学校の登下校時には、友だちにその場で考えた話をしゃべりながら歩くことがあったのも思い出します。

学級新聞を勝手に発行して、クラスメイトに配ったこともありました。

その頃から小説家か書店のオーナーになりたいという願望を持つようになりました。

けれども、開業医である父が医学部への進学を望んでいることがわかっていましたし、実家を継ぐ以外のコースにはリアリティが感じられませんでした。

だから小説家や書店のオーナーという選択肢はずっと封印してきたわけです。

ゲイの精神科医カップルのブログを開始

国立大学医学部を卒業し、勤務医を経て、いよいよ実家のクリニックを手伝いはじめたら、そのとたんに父が「くも膜下出血」で倒れてしまい、その介護と病院経営に追われる日々が続きました。

その後、父が亡くなり、しばらくは喪失感でボーッとする日々を過ごしていました。

「元気になったら車椅子を押して花見に行こうと思っていたけど、かなわなかったな……」

そんな想いを抱えていたあるとき、当時おつき合いしていたパートナーが、「ブログでも書いたら?」と提案してくれました。

そこで心の空白を埋めるように、ブログを書くことにしたのです。

当初は、自己満足の地味なエッセイを書いていたからか、アクセス数がまったく伸びませんでした。

そこで、しばらくはHTMLなどをいじって、ブログの“見た目”を改造して、アクセス数を伸ばす工夫をしていました。

せっかくなので記事をもっと注目されるものにしたかったからです。

「単なる医者のエッセイではつまらない。アテクシの武器ってなんだろう」と……。

考えてみると、アテクシもパートナーも精神科医。

彼は天然なところがあって、面白いエピソードがたくさんありました。

ゲイの精神科医カップルのブログなら注目されるのではないかと、ひらめきました。

普段はオネエ言葉で話しているわけではないですが、オネエ口調のほうがキャラ立ちするだろうと考えて、オネエ口調の文体で書くことにしました。

「あたし」や「あたい」はありきたりなので、もうちょっと引っかかる言葉として「わたくし」と「わたし」をくっつけた「アテクシ」にしようと思いつき、最初は彼との日常を4コママンガ風に書きはじめました。

すると、順調にアクセス数が伸びていき、1回の記事が1万ビューくらいを記録するようになったのです。

当時、実家のクリニックは割とヒマだったので、1日6回くらいブログを更新するようになりました。

これだけ反響があれば、1冊くらいブログ経由で、出版のオファーがくるかも? と考えて「作家・精神科医 Tomy」という名刺を作り、出版関係の人たちが集まる異業種交流会に参加して配りまくりました。

その間もブログは書き続けていましたが、しばらくするとゲイカップルのネタも尽きてきました。

するとパートナーが「悩み相談をやったらいいんじゃない?」というアドバイスをくれたので、ブログの読者からお悩みを集めて、それに回答するというのをはじめました。

コンテンツが日常生活と悩み相談の2本柱になったことで、アクセス数がどんどん伸びていきました。

半年ほど経過したある日、「名刺を見た」という編集プロダクションの人からメールがあり、それが最初の出版につながったというわけです。

(構成:渡辺稔大)