『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』を推してくれたキーパーソンへのインタビューで、その裏側に迫る。
今回は特別編として、日本最高峰の書評ブロガーDain氏と読書猿氏のスゴ本対談「世界史編」が実現。『独学大全』とあわせて読みたい世界史の本について、縦横無尽に語ってもらった。(取材・構成/谷古宇浩司)

本好きの度肝を抜く! 年末年始に必読の「世界史スゴ本」ラスボス的一冊Photo: Adobe Stock

Dain:今回の対談のテーマは「世界史」です。対談の前にお互いで5冊ずつのおすすめ本を出し合って「世界史」を肴にお喋りをしようというのが今回の企画の主旨でした。

読書猿:そもそも「歴史」という言葉は意外に新しくて、日本での初出は1660年に林鵞峰(江戸時代前期の儒者。林羅山の三男)が手紙の中で用いたものらしいです。元禄時代ぐらいから、書名にも「歴史」が使われるようになって、幕末に編まれた辞書にhistoryの訳語として「歴史・記録」という言葉が当てられるようになる。これが中国にも逆輸入されて使われるようになったんだ(注1)、と。

「世界史」という科目も、大正期にようやく登場するんですが、それまでは西洋史(西洋歴史)と東洋史(東洋歴史)と分けるか、さらにその前は「万国史」という名前を使っていたみたいです。

 でも今は世界史って、学生に人気がないらしいですね。でも、世界史の授業が学校で始まった時は大人気で、一時期は7割くらいの学生が世界史を選択した時代もあったようです。現在は世界史自体は必修で何らかの形でみんな学ぶんだけど、受験では選択する人はずっと右肩下がり。センター試験でも15%くらいでしょうか。内容の方は、研究成果の充実ぶりもあって、右肩上がりになっているんですけどね。まあ、だからこそ、みんなに避けられているのかもしれませんが(笑)。

Dain:実は高校の時、「世界史」を選択しなかったんです。今は後悔しているのですが、人生をやり直しても、世界史は選ばないかもしれません。というのも、純粋に投資対効果を考えるとそうなります。受験を見越して、「社会で何を選択するか?」で、日本史、世界史、倫理政経と3つありました。その時私は、教科書と用語集を並べて比較して、圧倒的に薄かった「倫理政経」を選択したというわけです。

 たぶん今でも同じだと思います。「試験範囲=教科書」と考えると、教科書の厚みで勉強範囲が比較できる。けれども、世界史AやBといったレベルや、図表をどこまで載せるかといった編集方針で、一概に教科書の厚みだけで比較できない。

 けれども「用語集」なら図表も関係ないです。いま山川出版社の用語集で比較すると、こう。

世界史用語集(約5600語)……408ページ
日本史用語集(約1万7000語)……448ページ
倫理用語集(約3000語)……360ページ
地理用語集(約3700語)……325ページ

 実は地理が狙い目ですね(笑)。でも、高校の時、世界史やっておけばよかったな。大人になって、手あたり次第に本を読みながら、「知りたいこと」を追いかけていると、必ず世界史を紐解くことになるので。じゃぁ、世界史を先回りして押さえておいたほうが、効率よく知的好奇心を満たせるんじゃないかと。今更ながら世界史を学んでいるのは、こうしたわけなんです。

(注1)佐藤正幸『歴史認識の時空』(知泉書館、2004)

四半世紀ぶりに『岩波講座 世界歴史』刊行開始

読書猿:今回の対談にあたり、それぞれ本を選んで喋る内容を準備していたんですが、岩波書店の『岩波講座 世界歴史』全24巻の刊行が始まって、第一回の配本がこの対談の数日前に届いてしまったんです。実は注文したのを忘れてたんですが(笑)。いや、もちろん期待はしてたんですよ、何しろ四半世紀ぶりですし。で、届いた第1巻を見てみたら、これがとんでもない代物で、せっかく話す内容も取り上げる書物も決めていたのに、「やばい、全部もっていかれそう!」となってしまって。

Dain:『独学大全』でも紹介されていた「講座もの」ですね。ある分野の専門家が、その学問のコンテンツを何冊にもわたって紹介してくれる。

 初夏ぐらいかな、岩波書店が『世界歴史』をゴッソリ書き直すよーというニュースを聞いた時、最初に気になったのは「全部買ったらいくらになるのだろう?」と値段の方……。そして、「3500円x24巻で8万円を超える!」と慄いて、「図書館コースだぁ……」と考えていました。

 そしたら読書猿さんが、「予約したのを忘れてて、よりによって今日届いたんですよー」なんてシレっといってて笑える。読書猿さんにとっては、買うの当然で、もちろん読み込むのも前提で、どんだけスゴいんや……。Zoom画面ごしで見ると、めちゃくちゃ付箋貼りまくってて、「買った当日にそこまで読む!?」とビックリしました。

読書猿:最初の『岩波講座 世界歴史』は1969年から71年にかけて出ました。日本の、いわゆる戦後歴史学の集大成といった仕事で、僕たちの世代が中学や高校の世界史の授業で習った内容はこの第1期『岩波講座 世界歴史』に書いてあるものをベースにしている。その後、1997年~2000年にかけて第2期の『岩波講座 世界歴史』が刊行されました。当時の最新の歴史学の研究を受けて、先行の戦後歴史学の成果を乗り越えようとする内容でした。

 そこからさらに四半世紀の時間が経って刊行が開始されたのが、今回の第3期です。

 第1巻は、全24巻あるこのシリーズの総括にあたる巻です。各巻ごとに編集責任者を置いて、その巻の内容と執筆者、誰に何を書いてもらうのかを決める。さらに各巻冒頭に置かれる、その巻のコンセプトを示す論考も編集責任者が執筆しています。

編集責任者は高校の先生「岩波書店、攻めてきたな」

読書猿:で、今回の第1巻は、編集責任者が小川幸司さんです。ご存じの方もおられると思いますが、この人は高校の世界史の先生なんです。現在は長野県蘇南高等学校の校長をされているようですけど、『世界史との対話』っていう授業を元にした分厚い3巻本を書かれていて、これを読むとこの方の歴史の授業はすごいものだというのがわかる。告白すると、第1巻を手にした時、私は小川さんという方がどんな人か知らなかったのですが、冒頭論文を読んでいると、どんどん違和感が蓄積していったんです。また怒られそうなことをいうと、「おかしい、歴史研究者にしてはあまりにも視野が広すぎる」と(笑)。

 それで論文の最後の方に「第三期の『岩波講座 世界歴史』の第一巻の編集責任を大学の研究者でない私が担っているのは……」という一文に出会って、迂闊にもびっくりしてしまって。いや、『岩波講座 世界歴史』っていうのは、ほんとに歴史学会が総力をあげて取り組む大プロジェクトで、その第一巻はさっき言ったとおり、シリーズ全体の総括巻ですよ。

「岩波書店、攻めてきたな」と思いましたね。

 ただ納得もしたんです。学校の世界史担当の先生は「教える専門家」です。専門は「教える」ことなので、「ある時代だけやります」という訳にはいかない。扱う分野は幅広くなる。要は人類の歴史のすべてを扱うわけです。

 一方で、大学などに籍を置く(歴史の)研究者は、独自のテーマの研究に専念する。なにしろこれまで誰もやってない仕事をするのが研究者の仕事なので、全力を一点に絞るという戦略が正しいんです。たとえば18世紀のイギリスのさらに細分化されたテーマを選ぶことになる。ただ一方で、総括的な仕事というのは必要です。そういう仕事は、普通は重鎮クラスというか、長く研究者を続けてきて、その分、自分のテーマの周辺にも目配りが効くような人たちが担う。

 ホームベースがあって、そこから広げていく感じですね。たとえば岩波新書の『フランス史10講』の柴田三千雄さんとか、『イギリス史10講』の近藤和彦さんとか。どちらもすごい本なんですけど、それでも専門外の時代を書いている箇所は、ちょっと苦手っぽい感じがしてしまう。

Dain:「岩波書店から」「定期的にアップデートする」「世界史のシリーズ」というだけでワクワクなんだけど、その第一巻の編集責任者が「世界史の先生」というので驚いています。私の印象だと、世界史というか歴史は、専門に研究している大学教授が監修なり執筆している、ガッチリとしたイメージがあります。「あの大学の教授が書いたんなら大丈夫でしょ」という箔付けというか権威付けがあるのかな、と思っていました。そして、そうした箔付けされた歴史が教科書になり授業になるものだと思っていました。

 一方、世界史の先生は、「教科書」という権威を、いかに料理して面白く(かつ効率よく)教えるかに心を砕く人、というイメージを抱いています。なので、「岩波書店の世界史の編集責任者」と「高校の先生」のギャップに驚いています。小川幸司さんはそれだけ凄い歴史家ということでしょうか。

スゴいポイント1:「歴史の歴史」からはじまっている

読書猿:いやあ、すごいと思います。少なくとも私は驚嘆しました。小川幸司さんの文章の何が凄いかというと、世界史全体というか、人が歴史すること全体を歴史家の目で改めて扱おうとしているところです。ど素人なら、あるいは(悪口ですが)哲学者なら、恐れを知らずやっちゃうかも知れない。でも小川さんは確実に歴史学のトレーニングを受けた人なんです。だからまず歴史の歴史、つまり人々をどんな風に歴史と関わってきたのか、その歴史から話を始めます。最初は、シュメール人やエジプト人ですね、文字を発明した彼らが「特筆すべき事件」を記録し、それを王様の名前と結びつけていく。いわゆる「王名表」ってやつですね。それが最初の歴史であると。

 その次は『旧約聖書』です。『旧約聖書』には事実の記述だけではなく、書き手の存在というか「問い」も記述されている。「なんでオレたちユダヤ人はこんな酷い目に遭うのか?」という被迫害者としての意識が記述のベースにあると。『旧約聖書』の歴史記述は自分たちの窮状にも意味があるんだ(あってほしい)という意識があることで成立するんです。そういう歴史との向かい合い方ですね。歴史に問いかけ、事実の理由付けをしていくというか。ここには確かに歴史を書かざるを得ない理由を持った歴史家がいる。書いているのは無名の人なんですけど。

 それから古代ギリシャ。『歴史』で有名なヘロドトスが出てくる。個人名で歴史を描く歴史家が登場し、個人のパースペクティブで歴史を記述する時代がやってきます。ヘロドトスだけではなく、トゥキディデスも戦争が歴史記述のメインの出来事です。彼らの視点は「戦争は嫌なものなのに、人間はなぜ戦争をするのか」ということ。ペシミズム。人間という存在を悲観的に見ざるを得ない戦争状況が彼らの日常だった。

 古代ローマに移ると、画期となったアウグスティヌスを取り上げています。ローマ帝国が衰退しつつある中、それでも帝国の未来を語ろうとする歴史書『神の国』を残しました。「今はこんなに酷い時代だけど、来世は神が祝福してくれる。だから頑張ろう」と。古代ギリシャ時代のペシミズムを引き継ぎながら、ひっくり返して「未来へ向かう歴史」という見方を確立する。これがその後の西洋の歴史観の基礎になるんです。

 ……とまあ、こういうことを延々と短い文章で綴るわけです。20世紀のアナール学派まで。これだけでも凄いんですけど、西洋史のサマリーの後に、今度は日本で歴史がどういうものだったかを持ってくるんです。

Dain:「世界史の世界史」、面白いですね。他の国で「世界史」がどのようも語られてきたのかが気になります。たとえば、中国だったらどうか。フランスだったら? 同じ「世界史」でも、語られ方が国によって異なるはず。今回の『岩波講座 世界歴史』ではどいう風に書かれているんでしょうか。

読書猿:ええ。その歴史の「語られ方」の違いがそもそもどこから来ているか、それも「世界史の世界史」の一コマとして取り上げられます。

 レオポルト・フォン・ランケという、近代的な、言い換えると実証的な歴史研究の源流となった、19世紀ドイツの歴史学者がいます。歴史研究というのは、各地の文書館に保存されている未刊行史料を徹底的に読み込んで仕事をするものだとか、今につながるような歴史家の作法、学問的な歴史研究のベースを作った人ですね。

 また彼は先行するヘーゲルやマルクスらの「進歩史観」、つまり後の時代は前の時代よりも優れているみたいな考え方を批判しました。同様にどこの国はあの国よりも進んでる、みたいなのもダメ。それぞれの時代、それぞれの国には、尊ぶべき個性があるみたいな考え方です。彼の歴史観は、いわゆる「一国史観」の元になっているし、国民国家が自国のアイデンティティを作り上げるのに自国史に力を入れた、その背景にもなっています。

 さらにいえば、各地域/各国別で時代別に編集されている、現在の歴史教科書の書き方のベースにもなっています。ドイツならドイツの特徴はこう、みたいな。世界中から歴史研究者がドイツに留学して、また日本のようにランケの弟子を召喚したりして、ランケの実証史学は世界中に広がり、スタンダードな歴史研究の方法になっていくわけです。

 より新しい世代の歴史研究、たとえばアナール学派は、いろんな面でランケを批判するわけですが、僕らの世代だとアナール学派の仕事を「新しい歴史学」みたいな感じで知ったわけです。つまり元々のベース、スタンダードの歴史研究というのは、彼らに批判されるランケたちのイメージなわけです。

Dain:一国史観のベースには、「部分の全体は総和」という考え方があるのかな、と思っています。世界地図を広げると、各国の国境線が引かれている。各国を組み合わせると世界全体になります。だから、世界とは各国の総和だと自然に導かれます。そこから、歴史も同じで、「世界史=ドイツの歴史+フランスの歴史+……」という発想です。いかにも自然科学的な考え方だな、と思います。

 ですが、その前提ってあってる? と疑っています。この「ドイツ」って、「いつの」ドイツだよ、とツッコミを入れたくなります。国家という政治の単位は、特定の時期に作られた人工的なものなのに、そこで固定的に捉えてしまうことになります。その結果、現代の国境線から恣意的に過去を切り取ってしまうことになります。

 試しに「イギリスの歴史」を紐解いてみると分かるはずです。イギリスの教科書を開いてみると、古代は「グレートブリテン島の歴史」ではなく、ローマの歴史が書いてあるはず。「アメリカ合衆国の歴史」は言わずもがな。

 さらに、この考え方だと、固有の文化や歴史、文字、信仰をもったまとまりであるにもかかわらず、「チベットの歴史」は存在しないことになります。

 図解するとこんな感じですね。

 言語、人種、宗教という風にシンプルにしていますが、もっと多様で多層で入り組んでいるのが現実です。

 ランケのやり方だと、「ユーゴスラビアの歴史」は書けない。坂口尚の『石の花』で知ったのですが、かつてユーゴスラビアと呼ばれた「国家」は、7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字を持っていました。それぞれが絡み合い、分断されていた歴史は、人工的な国家という概念だけでは記述すらできない。歴史を書こうとするなら、もっと多層的な視点が必要だと思っています。

 この視点は、『東大連続講義 歴史学の思考法』(東京大学教養学部歴史学部会編集、岩波書店)で身につけました。大学1、2年に向けた講義形式なので読みやすかった。「歴史はどのように記述されるか」とか「歴史はどのように構成されているか」といった本質的な議論がなされています(国できったときに、ランケの考え方を成り立たせ得るためには必要というか、その総和としての全体として成り立つのだろうけど、その前提はそもそも恣意的に作られたもの、移送もするし、国境自体変化する)。

読書猿:歴史を構成する要素には大きく、「時間」「空間」「(歴史)認識」の3つがあります。たとえば、「国境」という空間的なものにも、ライフサイクルというか、誕生から定着、そして消滅するまでの時間的な流れがあります。もうひとつの空間的なものである「地域」についても、どこからどこまでを「ある地域」とするかは、時代時代の認識、つまり価値判断と歴史実践に依る。

 たとえば古代ギリシャの時代、「ギリシャ」というはまとまりはもともとなくて、さまざまなポリス、都市国家の寄せ集めだったのが、ペルシャ帝国という「外的」の来襲により、これに対抗するために「全ギリシャ」みたいな意識、ついでデロス同盟のような「制度」が生まれました。その時を生きる人間が考えを変えて行動を起こすことで「地域をでっちあげ」、後々それが「歴史」として記述されるようになるんです。

Dain:確かに! 共通の「敵」によって一致団結して、全体のまとまりが生まれるのは、映画『インディペンデンス・デイ』で履修しました!

読書猿:まさにそれです(笑)。ちなみにヘロドトス『歴史』の記述順序って、何を基準にしているかというと、拡大するペルシャ帝国に飲み込まれていった順番(笑)なんです。

Dain:なるほど! ギリシャ側は都市国家だから一つ一つ都市が陥落されていく歴史でもあるわけですね。

スゴいポイント2:「歴史家のための」ではなく全ての人のための歴史

読書猿:小川幸司さんの文章には、研究者だけが歴史と関わるわけではないという視点が一貫している。「歴史実践」という言葉が印象的です。歴史研究者がやる「研究」とは、一次資料を探し、(資料を)吟味して、仮説を立て、研究者間で議論しあう。議論の結果、残ったものが史実と認定される。でも、それで終わりじゃない、その後(認定後)があるはず、というのが小川さんの主張なんです。彼はヴァルター・ベンヤミンの遺稿で、『歴史の概念について』と訳される歴史哲学の小文を挙げながら説明しています。いつどんな場合に人は歴史と関わるのか。それは(歴史というのは)「危機の瞬間にひらめく想起」なんだ、と。

 人はピンチの時に、いろんな形で過去のことを思い出す。死ぬ前に幻視する走馬灯の影絵のように。そして参照される過去は、その人の個人的体験に限りません。

 東京電力福島第一原発で事故が起こり、誰かが水をかけに行かなくてはいけないとなった時、特攻隊のことを思い出して遺書を残した消防士がいた、ということをあるジャーナリストが書いています(注2)。歴史は人に何かあった時に、自動的に立ち上がる何かなんです。そうやって歴史を参照しながら考え、行動し、世界にほんの少し影響を与えて、現在を作り出す。それによって、次の歴史ができるのだと。歴史実践というのは、そういう循環的なものなんです。そして、歴史研究者の仕事も、そうした歴史実践と無縁のものではなくて、むしろ大切な歴史実践の一部なんだというんです。

 そういうメッセージが『岩波講座 世界歴史』第3期のスタートを飾っています。高い視点から、歴史家のみならず、なぜすべての人が歴史に関わるのかを説いています。最先端の歴史研究を伝える「講座もの」なのにスタートがこれで驚いた。いや、今回のシリーズはさらにその先へ進んでいたんです。

 こういうことを、今どういう人が書けるのか? と改めて考えると、研究者ではなく、やっぱり「歴史の先生」じゃないか。というのは、世界史の先生が直面している「現場」は、何十年か未来を生きる若い人たちだからです。そういう人材を責任編集者として総括巻に迎えることができた。いろいろ言う人もいるかもしれないけれど、私は成功していると思います。あと読書猿的には、研究者じゃない人の知的営為の好例が垣間見られて嬉しい、というか。そういう動きが岩波書店から現れてきたということに驚いています。

(注2)吉田千亜『孤塁:双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店、2020)
「岡本は「これでは、特攻隊と同じではないか」と思い」
「堀川達也は、高校での唯一の友人に遺言を送った。妻には心配をかけたくなかったため、「頑張ってな」とだけ送った。草野重信も、いつも持ち歩いている小さなメモに、遺書を書いた。家族あっての仕事、と思い続けてきた松本孝一も、妻と子どもあてに遺書を書いた。」
「雪が降る中、両サイドに職員が並び、敬礼する間を、車両が一台ずつ出ていく。松本剛幸は、出発のこの景色を決して忘れないだろう、きっと特攻隊はこうだったのだろうと思った。」
Dain(だいん)
書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」管理人
ブログのコンセプトは「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」。2020年4月30日(図書館の日)に『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』(技術評論社)を上梓。